英語による覇権は、希望か絶望か

f:id:nov14b:20150910085452j:image
http://www.newsweekjapan.jp/stories/movie/2015/09/post-3893_3.php

f:id:nov14b:20150910085459j:image
f:id:nov14b:20150910085523j:image

ネパールの少数言語、母語の消滅を憂う「最後の話者」
“最初は誤ってチベットビルマ語派に分類されていたクスンダ語には3つの母音と15の子音があり、その言葉にはクスンダの人びとの歴史や文化が反映されている。「彼らは自分たちのことを『トラ』を意味する『myahq』と呼ぶ。自分たちを森の王だと思っているからだ」(ポカレル教授)。またクスンダ語には「緑」を意味する言葉がない。森に囲まれて暮らしてきたため、「緑」に呼び名が必要なものとみなされなかったからだ。”

経済成長で少数言語が失われる、研究
“論文の共著者、英ケンブリッジ大学動物学部の天野達也氏は、経済が発展するに連れ、ある一つの言語がその国の政治や教育空間を支配するようになると説明する。「人々は支配的な言語に適応することを強いられる。さもなければ経済的・政治的に取り残される危険性にさらされる」と。”
 

言葉は文化だ。
ニューズウィークの記事タイトルにある「希望か絶望」のどちらかしかないとは思わないけれど、長い歴史のなかでつくられた文化というのは、経済成長や効率化なんかを理由に簡単に失ってはあかんと思うなあ。だって、一度無くなったら簡単に取り戻せないんだよ。