おはようございます。今日、5月3日は憲法記念日です。
渡邉友樹さんの「ぺぺぺ日めくりカレンダー」は毎日ふざけてるけど(褒め言葉)、祝日を思い出させてくれるから好き。
憲法記念日とは、
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html (内閣府HP)
国民の祝日のこと。国の成長を期するってよくわかんないけど、とにかく日本国憲法の施行を記念するのだ。
・・・
名古屋には大好きな本屋さん『ON READING』があって、去年「あいちトリエンナーレ」に行ったあと、お決まりのように足を運んだ。
(オンリーディングは、溺愛するスノーカルチャー雑誌『Stuben』に出合えた場所でもある)
店に入って、すぐ目に付いたのは『日本国憲法』(発行/童話屋)だった。
「あいちトリエンナーレ」で否応なしに「表現の自由」について考えさせられた日。改めて、この国の取り決めや自由について考えてみたかった。
この本は、若い読者が読みやすいように、と漢字にふりがなをふっている。英訳付き。そして本体価格286円(+税)という 、子どものお小遣いでも買いやすい値段。
改めて読んでみたらまえがきが素晴らしかったので、ちょっと長くなるけど引用する。
まえがき 童話屋編集子
子どもたち、この新しい世紀のはじめに、「日本国憲法」を読みなさい。ある日きみは、幸せないのちを持ってこの地球にやってきた。きみのいのちは、なにものにもまして、尊く重い。地球よりも重い。きみのいのちだけではない。きみの父さんや母さん、友だちや先生、隣の国の人、そしてこの地球上にいる七十億の人間のいのちは、みな等しく尊く重い。
なんだあたりまえではないか、と思う人がいるかもしれないが、半世紀前までの日本には、ひとりひとりの人間を尊重する精神は乏しかった。
想像してごらん。自由も平等もなく、いのちは虫けらのように扱われていた社会。そんな暗い時代が長い間つづいていた。
それにくらべて、今の時代の明るさはどうだ。「日本国憲法の第十三条を読んでみたまえ。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
「日本国憲法」が交付されて五十五年、いままた改憲や護憲の論議が盛んだ。
しかし、子どもたち、他人にまかせてはいけない。きみ自身が「日本国憲法」や「教育基本法」をよく読み、考え、自分の意見をきちんと持って論議に参加して、はじめて日本国民としての責任を果たすことになる。
ーそして、ともに遠く未来を見つめよう。千年後の子どもたちに遺すものー青い星、地球。そこに生まれてくる子どもたちにぼくたちが約束するもの。それは、あらゆるいのちが、幸せに生きる権利だ。
そして、かの有名な、憲法第三章第二十五条。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
と、ここまでは学校のテストで何度も暗記させられたと思うんだけど、この後に続く一文まで教わった(覚えている)人はどれだけいるだろう?
ここまでが「第二十五条」だ。第二十五条では、国民の権利を明記すると共に、国の義務についても記している。わたしはこれまで、憲法第二十五条は「国民の権利」について書かれたものだと思っていた。
果たして「日本国憲法」に基づき、わたしの権利は守られているだろうか?
国は義務を果たしているだろうか?
これを書きながら思い出したのが、「あいちトリエンナーレ」の参加アーティスト・田中功起さんの言葉だ。「表現の不自由展・その後」が閉鎖されたことに抗議して展示を取りやめ、閉鎖した自身の展示スペース入口で自ら綴ったメッセージ「不安についての短い手紙」を配布していた。
A3用紙の裏表にぎっしりと書かれた、作品の紹介、そして展示中止についての思い。
抗議声明やいくつもの問題点に対する指摘はどれも胸を刺すものだった。
その中の一段落「検閲と自己検閲」で、田中さんはこのように書いている。
思い出されるのは、2016年にぼくが書いた言葉。「私たちは今の社会の中で、自由に発話している、と思っている。しかし私たちの自由は、いったいどの程度、自由なのだろうか。あなたは本当に自由に発話しているだろうか。あなたのその自由は社会の抑圧との交渉の中にあるとは言えないだろうか。あなたは、自主規制の名のもとに、自らを検閲していないだろうか。あるいは、あなたが自由に発話できたとして、その自由はほかの誰かを傷つけてはいないだろうか。」検閲とは権力によってあからさまに行われるものだけではなく、ぼくやあなたのなかで(遠慮という態度によって、あるいは「安全」や「公共の福祉」の名のもとに)自ら起きるものでもある。私たちは自由ではない。だから繰り返しこの問題について誰かと話してほしい。ぼくも話している。何が起きているのか、何が隠されてしまったのか、何をあなたはためらっているのか。
これを再び読んで、真っ先にコロナ禍における「自警団」が頭に浮かんだけれど、その他にも、改めて点検しなければならないことが山のように多い気がする。
普段、あまり憲法を意識することがないのは、日常生活で生きづらさをさほど感じていないからだろう。じゃあ今、発言することや行動することがためらわれる今こそ、憲法について考えることは必要なんじゃないか。
田中さんは、「不安についての短い手紙」の結びにこう書いていた。
ばらばらであったとしても
それでも今回の出来事は、参加アーティストたちの中に多くの議論を生み、通常の国際展ではまったく話すこともなかったであろうアーティストたちの間にさまざまな繋がりを生み出した。それはぼくにとっては災害ユートピアのようなものに見えた。知恵を出し合い、対処をする小さなグループたち。一方で、今回の展示の再設定は、人々をがっかりさせるかもしれない。でもときには迂回も必要だと思う。
さらなる連帯のためには、正直な気持ちを話し、一度分かれ、そのあとで握手をすればいい。わたしたちはばらばらの個人だ。ならば、ばらばらのままであっても、共にいることを模索することもできるだろう。そしてこのような行動は、いつ、どこで、誰の作品に起きたことであっても、実行されていたと思う。今後、近い、あるいは遠い未来に起きた場合でも、ぼくは、あなたは、共に考え、共に行動し、ときにばらばらのまま、連帯できればと思う。
「ばらばらのままであっても、共にいることを模索することもできるだろう」。
あまりにも、今の状況に向けて書かれた言葉のように思えた。
(あしたで無職丸2週間)