『潜像残像 写真体験60年』濱谷浩

 

今後、何度もわたしのブログに登場するであろう濱谷浩。何回も同じことを言うのは野暮だけど、濱谷浩が好きだ。どれくらい好きかというと、今年、濱谷が滞在した新潟の桑取谷を一人で訪れ、手がかりもなくゆかりの場所を探したほど。わたしが巨万の富を築いたら、世界中にある濱谷の作品を買い占めて『濱谷浩写真記念館』を私費を投じて建設したい。濱谷が自らの人生を綴った『潜像残像 写真体験60年』は、はじめ金沢市内の図書館で借りて読んだけど、学ぶことが多く、古本を探して手に入れた。

 

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1915年東京に生まれ15歳の頃からカメラに親しみ、戦時中は軍関係の仕事もしたが、民俗学に出合って自身の生きる道を定め、徹底して日本の風土や市井の人々、世界の自然をカメラを通じて見つめてきた濱谷。1971年頃から「写真を撮る気が失せてしまった」と書いているが、それは環境問題の深刻化に伴い「公害の実態を見たり写したりして廻った」ものの、ひどい悪臭、廃流、廃棄物を「カラー写真で撮れば、これがキレイに撮れてしまう」からだと言っている。「汚い物は汚く撮れなければ嘘になる」。カメラの精度が上がったことにより、自身の写真に「嘘」が出てしまうことを恐れた彼の胸の内が正直に書き綴られていて、わたしはこの部分にすごく惹かれた。汚い物は汚く撮れなければ嘘になる。この言葉は、よりドラマチックに脚色したり人々の対立を煽ったりする今のメディアの在りように、何か通ずるものがある気がする。技術によって現実が過度に歪められていないか。汚い物を綺麗に見せる必要が本当にあるのか。物語を美談としてまとめる必要はあるか。少なくともわたしは、汚い物を、嘘をついて綺麗に見せようとする自分でいたくないと思う。