外来語(英語)を使って思想やメッセージをカジュアルダウンすること

街でたまに「平和憲法を守ろう」とか「アベ政治を許さない!」って書いてあるステッカーを貼っている車を見かけることがあり(あるよね?)、私も「憲法守ろう」的なステッカーが手に入るなら自分の貼りたいなあと思ったのだけどしばらくしてちょっと表現が直接的すぎて車に貼るのは(取材先とか色々行くし)厳しいなあとなった。じゃあ私はどんなデザインのステッカーなら車に貼れるんだろうって朝犬の散歩をしながら考えていたんだけど最終的に行き着いたのが英語のステッカーで、結局外国語に頼るのか〜い(ズコーッ)ってなって自分で自分が居た堪れなくなり、これはちゃんと考えないといけないのかもしれないと思ってそのときの気持ちをツイートしたのが「思想や活動を広めるツールとしてのファッションというのはあるのだろうけど、ファッションからその思想や活動に触れた人がファッションで留まってしまうみたいなのはどうにかならないんやろうか」だった。この真意だけど、人に語らせるのもずるいのでまず私が「外国語のステッカーなら貼れる」と思った理由を書くが、非英語圏である日本では、英語の視認性はそこまで高くない。雑誌の編集部として働いていた頃、(読者は日本語ユーザー前提なので)ちゃんと伝えたい特集タイトルは日本語で書くし、読めても読めなくてもOKみたいな感じであれば「デザイン重視で特集の雰囲気を壊さないように飾りっぽく英字を使ってください」みたいな指示をデザイナーさんにしていた。つまり英語であれば、そこに書かれていることがどんな内容であれ、パッと見て内容が分からない(直接的なメッセージを放たない)し、他者から「ファッションぽく」受け取られる≒受け取ってもらうこともできる、濁すこともできるのだ。私は世間体を気にしてあまり過激に思われたくもないという気持ちが少なからずあるし、ファッションであれば身につけられると思っているところがある。いつ始まったことなのか分からないが、政治的・社会的なアクションを呼びかける際に英語が用いられることが増えているような気がする(裏付けはなくてただの感覚)。例えば2021年の衆院選でグラフィックデザイナーやイラストレーターが自作ポスターを発表した「#選挙ポスター2021」では、「GO VOTE」、「OUR FUTURE」といった言葉をよく見かけた。批判をするわけではないのだが、ファッション業界出身のアクティビストが「パッチ」で自分の意思を表明する活動を立ち上げて、「ACT NOW」や「Save the Ocean」といったメッセージを発信している。(書きながら思い出したんだけど2011年以降の「NO NUKES」もこの話題に含んで良いのかもしれない)以前、SNSでは「SMASH THE PATRIARCHY(家父長制をぶっ潰せ)」と書かれたピンバッジを見かけた。私が気になるのは「なぜ英語を使ってメッセージを発信するのか」ということで、そこにはやはり直接的な表現を避けたりファッション感覚で発信することを狙っている部分があるのではないかということだ。一方で、外国語(英語)を選ぶことによる良くない面も少なからずあると思っており、英語の意味が分からない人を排除してしまうこと(これはミソジニーミサンドリー、マンスプetc、外来語に依存する日本でのフェミニズムの議論にも通ずると私は思っている)、それから英語で濁しているが故に「ファッション」の域を超えることができない場合があるということだ(他にもあると思うけど今はこれ以上言葉が出てこない)。冒頭のツイートに話を戻すと、思想や活動を広めるツールとしてのファッションの力を借りる(利用する)というのは大いに「アリ」だと思う。この場合の「ファッション」とは外来語(英語)を使って思想やメッセージをカジュアルダウンすることを指す。だけどファッションからその思想や活動に触れた人がファッションで留まってしまうことによる弊害、ファッションで留まった人たちにより、本来の思想や活動が軽んじられることにつながってしまうことについてはもう少し真剣に考えた方が良いと思うのだ。話が脱線しつつあるような既に脱線しているような。こうしたファッションで思想を語ることに私は以前から複雑な思いを抱えており(もちろんファッションによってそこに存在する問題について関心を持つ人が増えることは多かれ少なかれ良いことではあるのだが)ここ最近、その思いが強くなってきている。本当にファッションで良いのだろうか。知った人には知り続ける責任が、発言した人には発言し続ける責任があるのではないだろうか。まとまらなくなったので一旦終わります。