びょういんのばあちゃん

母方のひいおばあちゃんは身体が弱く入院しがちで、といっても恐らく若い頃はそうではなく年をとってからのことだったと思うのだけど、家族から「びょういんのばあちゃん」と呼ばれていた。もちろん入院していないことの方が多かった。私が幼い頃は、病気の影響で左右の太さがごぼうと大根くらい違うびょういんのばあちゃんの脚を見て面白がったり、お小遣いをもらって近所の文具屋へ遊びに行ったりしていた。そういえば、ベッドの枕元にはいつも読みかけの時代小説が置かれていた気がする。ちなみに私自身が子どもを産んで気付いたことだが、以前、まだ言葉が通じないひ孫にあたる私の娘に向かって祖母が「ばあちゃんが二人だとわかりづらいだろうから、ばあちゃん(祖母)がばあちゃん、もう一人のばあちゃん(私の母)は仕事をしているから『仕事のばあちゃん』にしようか」と話しかけていたことがあった。「仕事のばあちゃん」ってなんじゃそりゃ、と心の中でツッコミを入れながら、「びょういんのばあちゃん」というあだ名をつけたのは祖母だったのではないだろうかと思った。びょういんのばあちゃんは、じいちゃん(私の祖父)の母親だった。血は繋がっておらず、じいちゃんは養子で、じいちゃんの父親は、じいちゃんのお兄さんだった。養父は実の兄、という複雑な家族構成を聞いたとき、当時小学生だった私の頭は多少混乱したが、私にとっては大きな問題ではなく、昔はそういうこともあったのだなと思った。優しくて静かで寝たきりだったひいおばあちゃんは、私が小学校高学年だった(曖昧)ある日、突然姿を消した。当時同居していた私の祖父、祖母の気づかないうちに家を出て、そのまま行方が分からなくなってしまった。何日か経って、新潟で暮らす祖父母宛てに電報が届いた。「自分は北海道にいるが、元気にしているので心配しないでほしい。入浴施設で転んで骨折してしまったが大丈夫だ」といった内容だったと母から聞いた。わたしは、よくそんな行動力が残っていたものだと驚いた。子どもの頃にずいぶん可愛がってもらったという私の母は、大好きな祖母を心配して泣いていた。その姿をはっきりと覚えている。その数日後、今度は北海道のある警察署から、祖父母に電話があった。びょういんのばあちゃんが、ある小学校の校庭で凍死しているのが見つかったとのことだった。遺体を北海道から新潟へ運ぶにはお金がかかるので、葬儀は北海道で行うことになった。母は葬儀への参加を希望したけれど、まだ幼い(といっても小学生だが)私と妹の面倒を見た方が良いと、親戚たちと共に、母の代わりに父が北海道へ向かった。私はこのときまで知らなかったのだけど、びょういんのばあちゃんは北海道生まれだった。そういえば、私は子どもの頃に絆創膏を「サビオ」と呼んでいたし、何かが斜めになっていることを「かしがる」と言う。無意識の、びょういんのばあちゃん譲りの北海道弁だった。親戚の誰かが教えてくれた話だと、遺体が見つかった小学校の校庭からは、びょういんのばあちゃんが住んでいた街を一望できたそうで、「自分の死期を感じて生まれ故郷に戻りたくなったのだろう」ということだった。びょういんのばあちゃんはどんな気持ちで生まれ育った北海道を離れて新潟で生活し、最後に北海道へ戻ったのだろう。こんな話を思い出したのは10日間ほど実家に帰省して色々な新潟の景色を見たからで、今後、私はどこで生涯を過ごすことになるのか分からないけど、もしもそれが新潟以外だったとしたら、やはりびょういんのばあちゃんと同じように、死ぬときは故郷の景色を眺めたいと漠然と思った。