日記

今朝、娘を膝の上にのせて朝ごはんを食べていたら夫から「お母さんが7歳の娘を殺しちゃったニュース知ってる?」と聞かれて、静岡で13歳の少女が母親のことを殺害した事件は知っていたけど(余談だけど新聞社やテレビ局が「県警少年課は、子どもの性別や学年を『個人の特定につながる』として明らかにしていない」としつつ、取材に基づいて「長女」と報道しているのが気になるのと、ANNニュースでは第一報で「静岡県警は少年が事件に関わっているとみて、事情を聞くなど捜査している」と報じているのも気になった)、夫が話していることは知らなくて、ツイッターを見ていたら真っ先に知っただろうなあと思い、でも知っていた方が良いのだろうか、とりあえず久しぶりに新聞購読しようかしらと思うに至った。個人の呟きだなんだというけれど、タイムラインに流れてくる誰かのツイートやニュースに反応して自分も呟いているところが大いにあって、自発的っていうより超能動的だし、それも見直してもいいのかもっていうか即座に反応しない忍耐力(と呼ぶに足らないとは思うが)を身につけたいところ。脳内に浮かんでは消えていくことも消える前にどこかに書き出すのではなくてそのまま消えるまで待つことができればいいと思うし、それにはランニングはうってつけだし(先週「再開」して以来走っていない)、それでも書き留めておきたいことを残せばいいのかも。昨日ちまちまとマストドンを見ながら、といっても2、3人しかフォローしていないしタイムラインに自分のトゥートが更新されていくだけなのだが(そしてどんどん自分が弱毒化していっている感覚がある)、なんでNHKマストドンでアカウント作らないんだろうとか、村井理子さんはマスドドンに移行しないんだろうとか、柚木麻子さんはツイッターやめたんだろうとか思うなどした。イーロンマスクはこんなことを呟いていたが、depressedにもangryにもならない人がインスタグラムやツイッターを続けていくんじゃないのかなっていうかdepressedやangryになってしまう人はインスタグラムもツイッターもやりすぎなんじゃない。知らんけど。思い出したついでに書くけど日常に広告が溢れすぎているっていうこともそうだけど、無意識のうちに個々人が宣伝装置になってしまっているみたいなことはありそう。

話は飛ぶけど普段取材をして原稿を書くという仕事をしているが、取材とはいえ私(ライター)と取材対象という明確な肩書きとか属性があるわけではなく、大前提として人と人だし、何よりもまず相手に対する敬意と興味・好奇心がないといけないっていうか、最低限のコミュニケーションは必要なのではと思う。別の話で、自分が(読み手として)好きな文章、苦手な文章ってあるんだけど昨日苦手な文章を読みながらどうして私はこれが苦手なんだろう他の人はどう思うんだろうと気になったりした。

 

追記。大学時代〜社会人のはじめまで、新聞記事でも本でもなんでも印象に残った文章を全てタンブラーに書き写すというのをやっていて(https://amnotgivingup.tumblr.com/)今でもたまに見返すことがあるのだが、「言わずに察する文化で支えあっている私たちは、そのルールを無視する人間に接すると、著しく憤慨して阻害する。憤慨は動揺の裏返し、疎外は怯えの裏返しだ。」「私たち日本人が重んじている"和"は、実は相互の深い親切心のもとで成り立っているわけではなく、表面的なのかも知れない。人でなしとは思われない程度の親切と、身内以外の人に迷惑をかけるくらいなら切腹するぐらいの遠慮をもってして、かろうじて機能する繊細な絆だ。」「考えてみれば、日本人の私たちは、他人には礼儀正しいし、気を遣うのに、その人が自分に迷惑をかけてくる存在になると、途端に冷淡になる。」という綿矢りさの文章を見つけてそういえばしばらく読んでなかったなあと思い、去年出版された「嫌いなら呼ぶなよ」を(義母さんに)買って(もらって)読んだ。面白かった。夫も読んでいたんだけど、昨日読み終わって「面白かった!!」って言っててよかった。