遺体の写真

すっかり忘れてたんだけど大学三年生の頃、東日本大震災の直後あたりは明大前にあったデイズジャパンの事務所でインターンをしていた。インターンという名の無償バイトみたいなものだったけどそれなりにやりがいはあり、震災と原発事故にかかる政府の対応を検証する企画では、政府の会見をひたすら文字起こしする作業を任せられた。文字起こしをしたのはそのときが初めてで、たった30秒あたりの話し言葉の情報量に驚き、また文字起こしの大変さを知った。デイズジャパンでは報道写真のコンテストを行っていて、わたしが勤務していた頃にちょうど作品募集をしており、いちインターンである私にも応募された作品を見る機会もあった。やはり東日本大震災に関連した作品が多く、裸の人が木にぶら下がっているところを写した写真もあった。津波で犠牲になった人の遺体だった。なんでこんなことを思い出したかというと「ウクライナの惨状を知るために遺体の写真を見ることも大切」といった内容のツイートがわたしのタイムラインに流れてきたからで、いろいろ思うことがありしばらく考えていた。インターネットが普及し始めたのは私が小学生の頃で、各教室に一台コンピュータが置かれ、休み時間には自由にインターネットに接続することができたのだが、誰が思いついたのか、「死体の写真を見よう!」と言って神戸連続児童殺傷事件や大量殺戮や戦争の画像を調べてみんなでキャーキャー言いながら見るのが流行った。いま振り返るとヤバい遊びだけど同じようにコンピュータが家にある友達の家ではみんなで「ハッピーツリーフレンズ」(めちゃグロいアニメ)を観て同じように楽しんだ。度を超えたグロさってもはやエンタテインメントというか、もう脳が処理しきれないし心も反応しなくなって、戦争を反省とかそういう次元じゃなくなってしまうのではないか(ちなみに震災の遺体の写真を見たときはグロいとかじゃなくて、なんかもう「わー」としか思えなかった)。(追記。遺体の写真を見て「グロい」と思うか胸を痛めるかはその人次第と言いたかった)一方でわたしは東日本大震災以降、毎年3月11日に発行される全国紙朝刊を買って読んでいたのだけど、木にぶら下がった裸の死体の写真よりも、震災で亡くなられた人の生前に撮った笑顔の写真の方が、いろいろ感じることもある。なんていうか遺体の写真を見なくても戦争の悲惨さを想像することができる人はいるし遺体の写真を見たとて戦争の「リアル」を感じられるかと言えばそうとは言い切れない。結局は想像力の問題で、表現を直接的にすればするほど想像力や現実味が増すものでもないと思った。