#阿賀野川日記 11

新潟に来て仕事が変わり娘の通う保育園が変わりそして私のかかりつけ医が変わった。私は婦人科と心療内科に通院している。今日は後者のおはなし。心療内科に通い始めたのは、発達障害の診断がきっかけだった。どんな経緯だったか発達障害、なかでもASDという言葉(概念)に出会った私は理解を深めれば深めるほど自分がそれに当てはまるのでは、いやそうに違いないと確信するようになり、「石川県 発達障害」で調べて一番初めに出てくる発達障害支援センターに電話した。支援員との何度かの面談を経てWAISと呼ばれる知能検査をし、その結果を経て専門医につながって晴れて診断がつくに至った。その後は三ヶ月に一度の診察(カウンセリング)で、主治医に悩みごとや困りごとを伝えては、三ヶ月分の薬を処方されて帰ってくる日々。それが良いとも悪いとも思ったことはなかったのだが、新潟に来てから、事情が少し変わった。医者選びは少し迷った。石川では発達障害に強い先生として公的機関からおすすめされたクリニックに半ば自動的に通うことになったが、新潟では何をどうしたら良いかわからない。一つ一つクリニックのホームページを調べていけばそこに発達障害のはの字でも見つかるかもしれないが、そこまで労力を費やす気力はなかった。私は悩みごとや困りごとを誰かに相談したいというよりも、飲む意味があるのかはわからないけれど、継続的に同じ薬を処方してほしかっただけだから、正直クリニックはどこでもよかった。そんな矢先、たまたま車で通りかかったところに「〇月×日 心療クリニック開院」という看板を見かけた。建物の工事は順調に進み、しばらくしてそのクリニックは開院した。通りがかるだけだったけど、新しくて、おしゃれで、素敵な感じだった。これまで通っていた石川のクリニックに連絡をして、新潟のそのクリニックの院名を伝え、紹介状を書いてもらって予約を取った。初診を終えて、初めは一ヶ月おきに薬を処方されて、それが二ヶ月おきになって、今に至る。金沢から新潟へ、自営業から雇われへ、ワンオペから複数での育児へ。環境の変化に伴って、わかりやすくストレスが減った。そして自分自身を「発達障害だ」と意識することも減っていった。自分の中に、ASD「らしさ」を感じることが一切なくなったわけではない。会社では自分に発達障害があると伝えた方が良いのではと思ったこともあったし、取引先とのやりとりのなかで「やってしまった」と思い、「発達障害だから」と弁明したくなったこともあった。だけど、それらのコミュニケーションの中で発達障害というキーワードは必要なかった。それが発達障害だろうとそうでなかろうと、私の特性であることに違いなく、相手は私を発達障害者として見ていない。何か対応や発言をミスしたとして、「発達障害のせいで」と言い訳するのは、自分の心を救うことにはなるかもしれないけれど相手に謝罪したり理解したりしてもらう助けには全くならないと学んだ半年間だった。今の主治医は、私に発達障害があることを前提として私を見ていない。たとえば夫婦喧嘩の相談というか愚痴みたいなことを話すと、それをASDの観点から解説するのではなく、夫さんはこういう人なんだね、それに対してあなたの伝え方はこうだったよね、夫さんはこういう傾向があるよね、あなたはこういうコミュニケーションを取りがちだよね、といった感じで、あくまで私と夫の間で起こったこと(定型発達者と発達障害者ではなく)として捉えて、アドバイスをしてくれる。そのことが私にとっては、すごく良かった。私は、環境のおかげで困りごとが減ったというのもあるけれど、それだけでなく、発達障害という言葉に頼らずに自分の身の回りのことが理解できるようになったような気がしている。似たような話で、フェミニズムというキーワードに出会ったとき、世の中の見え方ががらりと変わった。これまで疑問だったこと、憤り、もどかしさ、怒り、すべてがフェミニズムに通じていたようなそんな衝撃があった。それからフェミニズムを学んだ。とにかく本を読んだ。フェミニズムは世の中を、社会を理解するのに役立ち、すべてを解決する、それくらいのインパクトがあるものだと感じた。けれど出産して子を持ち、親になり、母になると、フェミニズムも万能ではないということに気づいた。私の理解の助けになり、時に私を勇気づけたフェミニズムが、これまでとは違う社会的役割や立ち位置になったとたんに、むしろ自分に自信がなくなったり、「もっとこうでなければ」とプレッシャーになったりする、そういうことが増えていった。私はフェミニズムとは別の切り口で自分を支える言葉を探した(そこから生まれたものが、二年前に作った自主制作本だったりする)。自分を理解するために、また他者に自分を理解してもらうために発達障害という言葉に頼りすぎたことも、世界を理解する切り口としてのフェミニズムもそれだけでは十分ではなかった。前回の診察のとき、「来年予定通り金沢に戻ることになったんですが、先生が変わるのが嫌で」と先生に漏らすと、先生は「ほんと?それってここがきれいだからでしょ」と笑ってはぐらかすのだった。

#阿賀野川日記 10

アルバイトも日雇い即日払いの単発バイトもしたことがあったけれど、派遣社員という雇用契約は初めてだった。募集職種を見て、勝手に華やかな仕事を想像していた私にとって、そこで待ち受けていた仕事ははっきり言って雑務だった。求人情報の業務内容にはこうあった。「来客応対、電話応対、入力作業など」ここに嘘は何もなかった。荷物の集荷にくる業者の来客応対、注文を受ける電話応対、様々な書類をパソコンに打ち込む入力作業。逆に、期待していた私のほうがバカである。最初の一ヶ月間で、コピーを取ったり、データ入力をしたり、荷物の発送をしたり、電話の受け方を覚えたり、来社した人にお茶を出したり。私以外の誰にだってできる、特別なスキルを必要としない仕事は、私が自信を無くしていくのには十分すぎるものだった。そして数ヶ月もしないうちに、自分の仕事を雑務と呼ぶようになっていた。これも雑務あれも雑務と思ってする仕事は、恐ろしいくらいやりがいがない。やりがいがない上に、派遣だから、上司から目標を設定されることもなければ評価されることもない。会議に参加する権利もなく、だから意見さえ求められていないということが、はじめのうちはすごくつらかった。雑務だから、褒められることもなければ感謝されることもない。誰にだってできる仕事なのだ。忙しい社員の人たちが何行にも渡って業務日報を書いているなか、私はなんとか捻り出したその日の仕事を書くけれど、それでもたった三行分しかない。メールボックスに新規受信メールがない。名刺が減らない。会議中に電話番を任される。どんどん自信を失っていった。あるとき、たまたま顔を出しに来ていた社長と取締役から「がんばってね」といったことを声掛けされ、私は即座に「雑務、がんばります!」と答えた。その直後というよりも答えながら「あ、やってしまった」と思った。当たり前だが、私に仕事を振ってくれている社員の人たちは、雑務だから私に振っているのではない。また、それを雑務とも思っていないはずだ。必要だからそこにある仕事。だけど自分がするには時間が足りなかったり、また他の人にしてもらったほうが効率が良かったりするから振っているだけなのだ。それを私は。時給一三〇〇円、月の手取りにして十四万円ほどという給料の少なさもまた、追い討ちをかけた。実家暮らし、つまり家賃なしなら生きていけないほどではないが、決して贅沢はできない。拘束八時間、労働時間七時間で、週五日。私が素人で経験はないとはいえ、「一人暮らしができない給料」しかもらえないと思うと、私の価値はそれくらいのものなのだろうかと苦しくなった。最初のうちは、そんな気持ちが無意識のうちに漏れていたのだと思う。入社してまもない頃、近況報告という名目の愚痴を聞いてもらうために、定期的に北書店を訪れていた。当時私は、正社員を目指していた。新潟に来年以降も住み続ける可能性が出てきていた頃ということもあったけれど、それ以上に、自分を会社に認めてもらいたいという気持ちが社員登用へと向かわせていたのだと今となっては思う。「でも雑務しか任されていないし」と口癖のようにぼやく私に佐藤さんは「俺だって、肩書きのつかないバイトを七年続けて、いきなり店長だよ」と言った。「下積み時代があったからですね」とわかったつもりで返事をすると「俺は下積みとは思わないね。どれも仕事を覚える上で大切なことだった」と返ってきた。恥ずかしかった。その後も自分の仕事を雑務と呼ぶ癖はなかなか直らなかったけれど、自分や、自分のように正社員ではない人たちの仕事が俯瞰して見えるようになってきた。コピー用紙を切らさないように補充してくれる人、売上やスケジュール管理をしてくれる人、取引先とのコミュニケーションを取ってくれる人。そういった人たちがいるからこそ、実は組織は回っているのではないかと思うようになった。そして目立たない仕事ではあるけれど、いわゆる花形の仕事ではなく後方で組織を支えている人たちが、直接売上を作ったり製品を作ったりしないからという理由で(それだけが理由ではないかもしれないけれど)、正社員とは違う雇用形態だったり、給料が安く設定されていたりすることに憤ったりもした。一方でありがたいと思うこともあった。頻繁に任される業務があるのだが、私はこれまでそれをした経験があった、つもりだった。けれど実際はなんとなくやっていただけで、プロのレベルとは決して言えなかった。それを隣の席のTさんから繰り返し、ポイントを教えてもらったり、私の悪い癖を教えてもらったり、それからTさんの姿勢を間近でみて学ばせてもらったりした。自営業になって一番驚いたのは「怒られ」や「やり直し」が発生しないということで、会社員時代、どんなに完璧と思える原稿でも必ず赤が入って戻されていた私にとって、ほとんどスルーチェックというのはとても慣れないことだった。納品して、OKが出て、請求をして、お金が振り込まれる。誰かから「もっとこうしてほしい」とリクエストされることもなければ、自分にはできないことを新たに課されることもなかった。それが物足りなかった。だから今、これまでできなかったようなことをそれでも任せてもらえて(もちろん半人前ではあるが)、至らないところについてはきちんと指摘してもらえる。そのことがありがたくって仕方ない。時給一三〇〇円は、食っていくためと思えば少ないが、勉強しながらもらえるお金だと思えばとても十分だった。派遣だけがやるフロアのゴミ出しルーティンがあったり、暑気払いに参加する権利がなかったり(それは単に寂しいだけだ)、「派遣さん」として見られているように感じたり。派遣という働き方の不自然な部分を挙げ始めたらキリがない。けれど自分の立ち位置をようやく理解できるようになった今、それが派遣だろうと何であろうと、この仕事ができることに私は価値を感じている。

#阿賀野川日記 9

数日間の滞在を終えて金沢へ戻るとき、車の窓から高速で流れていく景色を眺めながら、ほとんどいつもと言っていいほど泣いていた。泣いてなければ泣きそうになっていた。右手に広がる黄金色の平野や、その先に見えるゆるやかな二つの山。見えないけれどさらにその先には日本海があって、その風景は私にとってたいへんエモーショナルであった。だいたいは、寂しさに暮れたのち、次第に機嫌が悪くなっていって、夫に悪態をついたり喧嘩をふっかけたりする。だからお互いが気持ちよく金沢まで帰ってこれたときには、今回は何事もなかったね、といったように無事(?)を祝うのだった。いつから新潟をエモととらえるようになったのだろうと考えたときに、一つ思い当たるのはじいちゃんの死、というか余命を宣告されてからの一ヶ月間だったように思う。もう八年くらい前になるだろうか、例年のように盆休みに合わせて長期帰省を予定していた、まさに連休初日の前日、母から電話があった。「じいちゃんが入院して、余命が一ヶ月だって」といったような内容だったと思う。だからその翌日の帰省は、お見舞いから始まった。昔、がんで入院や手術などをしていたことは覚えていたが、それが再発していたことも、体調を崩していたことも知らなかった。聞かされていなかった。揶揄ったり嫌味を言ったりする悪いクセがあって、よく愛犬のことを「犬鍋にして食ってやろうか」とか「海に捨ててきてやる」と言っては曇った私の表情を見て笑っていた。そのわりには犬の家を増築してくれたり、毎日のように浜へ犬を連れて行ってはたっぷりと散歩をしてくれた。祖父母の家に引っ越すことになったとき、私が「これから迷惑かけるけどよろしくね」と言ったらすぐに「家族に迷惑もなにもあるか」と返してきたのもじいちゃんだった。じいちゃんのことを特別好きだったわけでもないし、思い入れがあったわけでもない。けれど余命一ヶ月と聞いて、何もしないわけには行かないような気がした。盆休みを終えて金沢に戻ってきてから、毎週金曜は仕事を早上がりして高速バスか電車に乗り、週末のあいだ新潟に帰るというのを一ヶ月間続けた。以前は特急北越で結ばれていた金沢と新潟だが、北陸新幹線の開業からその路線がなくなり、上越妙高での乗り換えが必要になった。夏の終わりに向かって、また夕方から夜に向かっていく景色のなか、海岸線や山あい、田園風景の中を電車は走った。とても深い緑があって、群青色に染まった川があって、暗闇の中で一筋の線を描くように等間隔に並ぶ街灯があった。毎週、毎週同じ道を辿るうちに、それらは私にとっての新潟になった。ある日、じいちゃんに付き添い病院に一泊することになった。誤飲の恐れがあるため食事だけでなく水分すらも摂ることを制限されていたじいちゃんは、けれど一定の時間おきに喉が乾いて、夜中、狭い簡易ベッドでなんとか体を休めようとしている私に「ひや(氷)くれ、ひや」と声をかけてきた。ただでさえ移動で疲れているし、ベッドは体が痛いし、休みたかった。「いい加減寝させてよ」とキレ気味で返した私にじいちゃんは「一晩寝ないくらいで死なねわや」と言った。じいちゃんはほとんど余命宣告されたとおり、九月八日に死んだ。新潟的なものとは何かと考えたときに、地元の漁港や近くを流れる大きな川、田園風景、それらのうちどれか一つを取っても、それが新潟であるとは説明ができない。一方で、私はこれまで新潟に家族を投影してきたところがあると自覚しているが、ここ数年で、新潟の風景を見て、家族が恋しくなって切なくなるということもなくなったような気がしている。毎朝、車を走らせ二つの大きな川を越えて、通勤している。帰り道、特に今の季節はまだそこらじゅうに稲刈り前の田んぼが広がっていて、私は、これまで帰省のたびに見てきた景色とそっくりだと思う。ずっと新潟は、近くて遠い場所だった。故郷なのに、なかなか帰れない場所。富山を挟んで隣なのに、遠くてなかなか行けない場所。もっと長く滞在したいけど、仕事の都合で数日間しかいられない。でも今年、こうやって帰ってくることができた。いつかは過ぎていくのを見つめるだけだった景色の中に今私はいて、それはどこか奇跡のようにも感じる。一度、というか新潟に住むのはこれで二度目だけど、今ここでこの景色を経験したから、私は来年金沢に帰っても、やっていけるような気がしている。この景色の中で自分が生きていたという経験が、この先も私の心に残り続ける。

ALL LIVES MATER

・12日、佐渡市で世界遺産『佐渡島の金山』に関する追悼式が開かれました。韓国側が3年連続で欠席する中、【すべての】労働者に黙とうが捧げられました。

・「朝鮮半島の労働者の方は戦争という特殊な状況下とはいえ、故郷から遠く離れた佐渡で危険で過酷な環境の下で困難な労働に従事されました。【亡くなられたすべての】方々に心から哀悼の意を表します。」

・「鉱山に関わった【すべての】人への感謝と亡くなられた人への追悼の意味を込めて執り行っているので、(韓国側含め)すべての人に参加していただきたいという思いでいっぱい。」

「佐渡島の金山」追悼式 全労働者に黙とう 韓国側は3年連続で欠席【新潟】(UX新潟テレビ21) - Yahoo!ニュース

 

【強調】は私によるもの。この記事、見出しの【全】労働者を含めて、とにかく【すべての】という言葉が引っかかる。ちなみに引用したのはローカルテレビ局によるものだが、地元紙である新潟日報もほとんど同じような調子だった。全ての、全ての、全ての。「佐渡島の金山」の世界遺産登録に至るまでの道のりやそれに関する報道にも違和感満載だったが、先日、「佐渡島の金山」を実際に訪れて、考えさせられることが多かった。公式ホームページを見てもわかるのだが(https://www.sado-kinzan.com/)どこにも「朝鮮半島出身者」という言葉が見当たらない。それは観光モデルコースでもある坑道も同じで、罪人や無宿人も多く働かされていたことは記されており、また無宿人を供養するための募金箱や追悼式を実施している旨も説明書きがあったのだけど、私が見た限り、朝鮮半島出身者の強制労働についての記載はどこにも見当たらないのだった。追悼式の韓国側不参加について、新潟日報の記事には、「朝鮮半島出身労働者に対する強制性の表現を巡る意見が折り合わなかったとして過去2回欠席し、今回も「合意に至らなかった」として参加しなかった。」とある。(「佐渡島の金山」追悼式、参列者ら献花 韓国側は3年連続欠席「主要な争点で相互合意に至らず」と不参加 | 新潟日報)それ以上の理由はわからないけれど、私は、日本側の「全ての」という表現に原因があるのではと推測している。アメリカで「BLACK LIVES MATTER(黒人の命は大切だ)」というスローガンに対し、「ALL LIVES MATTER(すべての命が大切だ)」という主張が登場したのを思い出す。日本側の「全ての」は、包括的であるように見えて、特定の何かに言及することを意図的に避けているように見える。そうでなければなぜこれほどまでに「全ての」という言葉が出てくるのか。韓国側が求めているのは、日本側が、「全ての」という言葉で語りたくないことを煙に巻くのではなく、正しく歴史を認めることではないか。最後に参考文献を紹介して終わります。『佐渡鉱山と朝鮮人労働』(佐渡鉱山と朝鮮人労働/竹内 康人|岩波ブックレット - 岩波書店)

#阿賀野川日記 8(番外編)

十年前の佐渡は雨だった。友達に誘われるまま、佐渡行きを決めた。そこに行ってなにがあるのかは何も知らなかった。朝早くに家を出て、母から車でフェリー乗り場まで送ってもらった。外はまだ暗かったような気がする。そこに行って何をするのかも決めていなかった私たちは、路線バスに乗って小木の方へ向かった。友達が旅のプランを考えてくれたのかもしれないし、友達も行き当たりばったりだったのかもしれない。本当は、友達と佐渡で何をしたのかほとんど覚えていなかった。けれど小木、と地名を今口にできるのは、宿根木で撮った写真が残っているから。たぶん社会人になったばかりの頃だったと思う、たぶん夏の終わりだったと思う、私の記憶はたぶんで埋め尽くされている。日帰りだったからちょっと宿根木を歩いてそれからまたバスに乗り、両津へ戻ったんだと思う。ほとんどバスか、それか船に乗っているだけの旅だった。船に乗る前に、港の食堂でその土地っぽいものを食べたのを覚えている。何かを食べたことを覚えているだけで、何を食べたのかは覚えていない。最後に映像として思い出すのは帰りのフェリーの中、友達と、友達のお父さんそれから友達の妹と、私が二等席の絨毯の上に座って喋っている。夜、来たときと同じように母が港まで迎えに来てくれて、それで、家に帰った。

 

どこへ行って何を見て何をした。そういうわかりやすい記憶がないのに、だけど佐渡というものは強烈な印象を私に残した。だから十年ものあいだ、ずっと佐渡に行きたいと思っていた。久しぶりに訪れた佐渡は、快晴だった。台風が接近する日本の反対側の天気とは打って変わって、心地よい、秋の風が吹いていた。島についてはじめに私たちは、予約していたレンタカーを引き取り、下船直前に調べた食堂へ向かった。時刻は正午過ぎ。店の外までお客さんがあふれていた。駅前に戻って次なる候補を見つけるもオーダーストップ。結局両津港ターミナルに戻って、軽食を取り終えたのは一時過ぎだった。旅の目的だったお店を経由して小木へ向かう。カーナビに入れるとほとんど一直線に見える経路を案内されたが、それは拡大してみると峠のくねくね道だった。川を渡るとき、実りに実った稲穂の上を大きな鳥が飛んでいた。羽の先が美しいピンク色をしていた。「トキだ」「え、どこどこ」「ほら、あそこに」それは一瞬の出来事だった。途中、夫がトイレに行きたいと言い出した。山のど真ん中だ。路肩駐車できる場所を見つけて車を停め、しばらくして夫が「ちょっと、めちゃくちゃやばいんだけど」と言って戻ってきた。めちゃくちゃやばいんだけど、とは、めちゃくちゃスピリチュアルなんだけど、の意味だった。「でしょう」、私は自信たっぷりに答えた。行きたかったのは山の中にある本屋だった。私が本を選んでいるあいだ、娘は夫と一緒に、店の外の石が集められているところで石を選んでいた。「ひとつ選んでいいよ」店主はそう言ってくれた。娘は赤みがかった石を、夫は薄緑の透き通った石を選んでいた。三時頃に店を離れて、小木に着いた。娘が一番楽しみにしていたたらい舟に乗って、温泉に入って宿にチェックインし、予約していた居酒屋で刺身や焼き魚を食べた。外に出たのは八時頃だった。外は真っ暗で、人はいなかった。車も走っていない。「ほら、星見て」「よく見えないよ」「まだ目が慣れていないからだよ」空を見つめる。目が馴染んでくる。真っ黒のなかに白い点がひとつまたひとつと増えていく。甘いものが食べたい気分だったが、コンビニもなければ気の利いた飲食店もない。スーパーもない。肩を落としていたら娘が「娘ちゃんのドーナツをわけてあげる」と提案してくれた。宿に戻って、おやつに買ったドーナツを三等分にして食べた。

 

翌朝は港のそばのお店で朝ごはんを食べた。カウンター五、六席くらいのこぢんまりとした店で、食事をしながらときどき、お店の人と言葉を交わした。「昨日妻が夕ご飯のあとにスイーツ食べたいっていって。でもこのあたりってコンビニとかないじゃないですか」と夫が言うと、「私たちはそういったところに惹かれて移住しました。このあたりの人たちは、みんな、地元でお金を使い合ってそれでまわっている」と返ってきた。コンビニはない。スーパーも少し離れたところにある。ユニクロもない。だけどなかったらなかったで、ドーナツを分け合ったり、自販機でジュースを買うのが特別になったりする。自分の普段の生活を思い出す。普段の消費は、本当に必要な消費だったのだろうか。消費したくて消費していた気もするし、それは仕組みによって消費させられていたとも言えるような気がする。本当はすでに十分だったのだ。コンビニがなくても、百均がなくても、十八時にはどの店も閉まっても、生きていけるのだ。メニューは地元で採れた野菜や果物、佐渡で人気のベーカリーの食パンやクロワッサンに、地元の焙煎所のコーヒーだった。どれもしみじみ美味しかった。

 

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#阿賀野川日記 7

商店街の入口とも出口とも言える、つまり商店街の端っこの方にある町のパン屋が初めてのバイト先だった。バイトをするのは中学生の頃からの夢だった。というよりも、もうこれ以上部活をしたくないという気持ちの方が本当は強かった。とにかく私は高校に進学してすぐ地元のパン屋で働き始めた。パン屋の閉店時間は18時半頃で、時給は650円くらいだった。学校が終わってバスに飛び乗り、途中降車してシフト入りするのが16時半。夕方は来客がまばらで、パンもほとんど残っていない。要冷蔵の惣菜パンは夕方になると半額に値下げして、それでも売れ残ったら持ち帰っていいよと言われる。だから私は、奥行きがあまりない冷蔵庫の、それでも奥の方にホイップクリームが入ったあんパンやハンバーガー、竜田揚げが挟まったサンドイッチなどを隠していた。小細工もあえなく、半額を見つけたお客さんは「これはお買い得だわ」と二個も三個も買っていき、閉店するまで残っているパンはほとんどなかった。お客さんが来ないあいだは厨房の掃除をした。パン生地がところどころにこびりついている大きな機械を分解してホースで水を出しながらタワシで擦ったり、乾きやすいように並べておいたりした。夏休みは張り切ってシフトを入れた。朝早いのはつらかったし寝坊したこともあったけれど、がっつり稼いでみたかった。それでもひと月のバイト代が2万円台だったとき、仲の良い友達は学校の近くのローソンで4、5万円くらい稼いでヴィヴィアンの財布を買ったのを聞いて、すごく虚しかった。夏休みを捧げてゲットした2万円で、私はヘソにピアスを開けた。見た目はふつうなのにギャルに憧れがあって、とりわけヘソピに執着していた。繁華街にピアススタジオがあって、1万円で麻酔をして、キリみたいなのでぐりぐりとヘソの上に穴が開けられた。施術が終わって軟膏を渡され、定期的に塗るようにみたいなことを言われた。穴がうまく完成しないといやだから、一所懸命軟膏を塗った。こまめに塗った。その結果、ピアスが滑ってぬるっと取れてしまうことがたびたびあった。完成していない穴に、カーブがかかっているピアスを通すのはすごく難しい。そんなことを繰り返すうちに、だんだんと煩わしくなり、結局、1ヶ月と持たずにピアスを塞ぐことにした。まだ完成すらしていなかった。ある秋の日、休日の昼過ぎだったと思う。お客さんの注文に応えて食パンをスライサーでカットしていると、赤いものが見えた。「あれ」よく見てみると、それは自分の指から出ていた。左手の人差し指だ。一気に血の気が引いて、誰かから手渡されたティッシュを持ち、右手でぎゅっと押さえて胸より高い位置に上げた。正気を保つのに必死だった。その後、誰が病院へ連れて行ってくれたのかも覚えていないけれど、医師から「爪がなければ指が飛んでたね」と言われたことだけは記憶に刻まれている。バイトを辞めたのはこのことが理由ではなかったと思うけど、その年の冬にはまた別のバイトを始めていた。どんな理由であっても辞めたバイト先には行きづらくなる。私はそれっきり、パン屋に行かなくなった。

 


ある土曜の昼、パンが食べたくなった。そういえば今はあの店、どうなってるんだろう。「ねえねえ、パン屋さんに行こうか」娘を誘ってさっそく車を走らせた。木製のかわいらしいドアを開けるとカランカランとベルが鳴る。右手にトレーとトング、壁に沿うようにパンコーナーがあってその奥に冷蔵庫、レジ脇には飲み物コーナー。焼きたての匂いがたまらないラウンド食パンのメープル味に、フランスパンにポテトサラダを挟んでチーズを乗せて焼いたパン、洋梨のコンポートとカスタードクリームを合わせたデニッシュ。昔から大好きだったパンがそのままあった。娘はアンパンマンが描かれたチョコパンや、棒付きウインナーパン、ピザパンなどを熱心に選んでいる。価格は100円台から200円台がほとんどで、最も高くても400円くらい。子どもからお年寄りまでが食べられるような柔らかくて親しみやすいパンが揃っていた。レジを打ってくれたのは、オーナーの奥さんだった。おしゃれなところが昔と何も変わっていない。話しかけたい気もしたが、私のことは覚えていないだろうと思った。おばあちゃんの分、お母さんの分、明日食べる分などとたくさん理由を作って山ほどパンを買って帰った。

#阿賀野川日記 6

私が子どもの頃から祭りは八月二十四日、花火大会は二十五日と決まっていた。平日も休日も関係なく、例年同じ日に開催していた。たぶんその日は平日で、どうやって口実を作ったのか、だけど当時仲の良かった同級生が自分も行ってみたいと言ってくれて、学校を休んで地元の祭りに参加して神輿を引いた。高校一年生の頃だった。それが最後だと思っていた。いつからかわからないけれど、人が集まりにくくなったのだろう、神輿だけは休日に実施するようになったようだと知ったのは引っ越してきてからのことだった。新潟に一年しかいられないと決まってから、今しかできない経験を大切にしている。私と娘が神輿を引くと知ってまず祖母は、死んだ祖父の着ていた法被を箪笥の奥から出してきた。かれこれ二十年以上は日の当たらないところにあったそれは、しばらくハンガーにかけておいてもツンとする臭いが取れないままだった。続いて祖母は、娘の法被を探し始めた。はじめ私に「〇〇ちゃんところから借りてこい」といい、次に「〇〇呉服屋に売っているらしい」と言ったかと思えば「ちょっと待て、親戚のところから借りられそうだ」と言って、とうとう神輿の三日前に二人分の法被を用意してくれた。娘は初めての法被を見てその日のうちに「着てみたい」と羽織り、私もまた初めて迎える娘との神輿参加を楽しみにしていたが、誰よりも当日を心待ちにしていたのは、祖母のように見えた。

 


娘はいつもよりも三十分早く起きて、いつもよりもてきぱきと朝食を食べ、支度し、私が「せっかくだから」と長めのアイラインを引いて口紅をつけてあげると、何度も鏡を見てうっとりしていた。集合時間よりもだいぶ早く出発地まで行くと、ちらほらと町内の人が集まっていた。三、四十人ほどの子どもと大人が集まって、休憩を挟みながら、町内をくまなくまわった。といっても、私が子どもの頃とはずいぶん短略化されたように思えた。子どもの頃は、「いつ終わるのか」「次の休憩はいつなのか」ばかり考えながら神輿を引いていた。それくらい、けっこうしんどかった。なので思っていたよりもあっさりとゴールを迎え、あれ、こんなものだったのか、それとも私が大きくなったのかと考えさせられた。途中、大道路を通ったときに対向車線を走る公共バスの窓からこちらにカメラを向けている人がいた。民家の前で、鼻から管をつないでいる車椅子のおじいちゃんが、感慨深そうにこちらを見ていた。「よう出てこられたね」と、神輿を引きながら声をかける人がいた。最後の休憩では昔からかわらない、玉こんにゃくとゆで卵を食べた。塩をたっぷりかけて食べるゆで卵はおいしかった。

 


昼に諸々が終わって、神輿で出会い、仲良くなった五歳になったばかりの女の子がうちに遊びにきた。いったん互いの家に帰って着替えをしてまた遊びにくる約束をした。お父さんに連れられてきた彼女を預かり、二階に上がろうというときに、祖母から「どこの子だ?」と聞かれて、そういえばどこの子かよくわからないことに気づいた。聞いたところでわからないのだが。ここに住んでいると、「ここに住んでいる」ことが一つの共通アイテムのようなものになって、まあ、だから大丈夫みたいな、とりあえずおいで、遊ぼうみたいなそういう信頼がある。念のためお父さんとはLINE交換をしたけれど、それは万が一の保証のようなもので、でもあまり必要がないものだった。

 


ある程度経ってから、来たときのようにお父さんが迎えに来て、暇だし、と言ってその子たちの家まで歩いていくことにした。道の途中で、町会長チームが、片づけなのか宴会なのか残飯処理なのか、とにかく子どもも大人も一緒に飲んだり食べたり愉快に遊んでいて、それに混じることになった。近所の酒屋からレンタルした生ビールサーバーと生レモンチューハイサーバーから適当に自分が飲む分だけを注いで、水ヨーヨーを投げたり水を掛け合ったりだらだらしゃべったり。「夏は楽しいね」気がつけば娘にそう話しかけていた。