また買うの?一目惚れした日記帳今年の記録もままならないのに

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来年はしっかり生きられますように願いを込めて買う日記帳

また買うの?一目惚れした日記帳今年の記録もままならないのに

日記帳白いページが多いのは今年が充実していた証拠

性格上、十年日記は買わないが一年だったら生きられそうだし

 

週に一度しか入らない蕎麦屋のバイトのシフトは、曜日が固定しているので高確率で23歳と一緒になる。このあいだ話の流れで「不安が強くて夜中に何度も目が覚めるんだよね」と言ったら、「ななさん、酒っすよ酒。酒は効きます」とアドバイスされて、しばしば二日酔いで出勤する彼女らしいなあと思って笑えた。発達障害者(ADHDだかASDだったかは忘れた)は、酒や薬などの影響を極端に受けやすいか、もしくは全く受けないかのいずれかが多いらしい。「ほどほど」がないのが発達障害者らしいような気がする。私は酒や薬の影響を極端に受けやすい側の人で、だからお酒が飲めないし、ある薬について主治医に相談したときに「あなたは依存しやすいからやめておいたほうがいいよ」と言われたことがある。とはいえ、睡眠不足が続いたときにはちゃんと寝たくなる。23歳のアドバイス通り酒を飲み睡眠薬も飲んで眠りについたら、今日は11時に目が覚めた。クレジットカード機能付きのSuicaを盗まれる夢を見たり急いで東京に行きたいのにみどりの窓口が混んでいて乗りたい新幹線に間に合わない夢は見たけれど、総じて良い眠りだった。ドラッグ&アルコールは偉大。午後から家族で大きな書店へ出かけた。夫が「ひとり一冊本を買って、(併設する)カフェで本を読もう」と提案した。本はこのあいだ新潟へ帰省したときに北書店でたくさん買ったばかりだったけれど、広い売り場をまっすぐに短歌と詩、俳句のコーナーへ向かったら枡野浩一の『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである』が目に入って迷わず買った(それと、『ねないこだれだ』のおばけが目を引く日記帳も)。それから車の中で読み、夕食後に読み、お風呂で読んだ。枡野さんの短歌を読みながら、圧倒的に人間がいいと思った。こねくり回した言葉ではなくストレートな表現で多くの人の共感を集めているのは短歌そのものが良いということもあるけれど、ひとりの人間としての魅力があってこそのような気がする。圧倒的に良すぎて、自分がこれ以上この世に新たな短歌を生み出す意味なんてないんじゃないかと打ちのめされたけれど、しばらくしてからなんで比べる必要があるのだろうと思った。例えば私は他人のブログと自分のブログを比べない。誰かが取材をして書いた記事と自分が書いた記事とも比べない。他人がどんな素晴らしいものを書いていても、それは自分が書くものとは関係がないものだと思える。たぶん、自分が書く文章に対してそれなりに自信があるということもあるのだと思う。翻って短歌は楽しいけれどまだまだわからないことが多くて、仕事でもなければ評価される機会もないので、人と比べては自分の実力不足に落ち込んでしまう。それってまだまだ自分が未熟だからではないだろうか。四六時中といっても言い過ぎではないくらい一日中考えている短歌だ(たぶん自分の特性やライフスタイルと相性が良い)。もっといいものを作りたいしzineもそのうち作りたい。きっとその頃には人と比べなくなっているはず。現代アーティスト・村上隆の大規模個展に密着したドキュメンタリー番組を観た。村上隆はAIによる「ミストランスレーション」を逆手にとって作品制作に活かしていると話していた。下手な人が上手に描こうと思ってAIを使うのではなくて、上手に描ける絵をあえて下手にするとしたらどんな表現があり得るのかという逆(?)アイディア出しのようなことをしているのだという。ちょうどこのあいだ伝統工芸の仕事をする人に取材したとき、「伝統工芸は無くならない」と話していたのが印象的だった。作品を手にしたときの「なんかこれ好きだな」みたいな感覚は、言語化こそできないとしても作品の良さが伝わっている。何が伝わっているかというと、作り手のクセとか表現とかそこに込められた思いが感覚的に伝わるのだという。ブログでたびたび書いている発達障害や育児についての話題は、短歌ではほとんど触れていない。それは枡野さんの『かんたん短歌の作り方』で書かれていた「短歌以外で書いた方が面白いことは無理して短歌にしないほうがいい」(うろ覚え)的な教えにのっとってのことなのだけど、短歌では字数の制約があるからこそ、かえって自分が本当に思っていること、心に近いことを書いている気がする。いつかある対談記事を担当したときに、上出長右衛門窯の上出惠悟さんが話していた内容が記憶に残っている。「俳句って、五七五という制約のなかでどれだけ新鮮な表現ができるか、面白い表現ができるかということを何百年以上も続けていますよね。僕も定期的に甘蕉を作り続けているんですけど、モチーフや素材や技法という制約があるなかで、その都度新しいことをやってみたり遊びとして面白いことを取り入れてみたりしています。ただ同じものをずっと作り続けるんじゃなくて、そういう風に実験しながら楽しんでいけたらいいなって思っています」(上出惠悟 × 高山健太郎 前編|「アートと“工芸”の間」 – artness)。短歌について言えば、制約のおかげで余白ができて、かえって表現や受け手の想像力が広がるということ。 『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである』は、1ページにつき短歌が一首書かれていて、短歌のまわりの余白でさえも意味があるように感じた。