同じような話を色々なところで何度か書いているのだが、大学生の頃付き合っていた彼氏に「いとこってね、バカでかわいいんだよ」という話をしたら「障害者をバカとか言うなよ」と本気で怒られたことがある。私のいとこは重度のダウン症がある。どういう流れで「バカ」と言ったか覚えていないけれど、「障害者だからバカ」という話ではなく、あくまで「いとこのおバカな一面がかわいい」という文脈だったし、当時の彼氏がどうして過剰に反応するのか私にはわからなかった。当時のもやもやした気持ちを綴ったブログには『海辺のカフカ』のあるページの写真が添付されており、そこには「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。そういう人々を前にすると、僕は我慢ができなくなってしまう。ついつい余計なことを口にしてしまう」と書かれていた。人(全人類)に対してバカって言ってはいけないのはわかる。でも、それがもし、健常者に対してはバカって言ってもいいけれど、障害者に対してはバカって言ってもいけないのなら、私はよくわからない。もう4年以上前、妊娠中に山崎ナオコーラの『母ではなくて、親になる』を読んで、ダウン症は個性の一つなので(ダウン症以外にも疾患を抱えていることはあるし、ダウン症=パーソナリティではない。例えば小児がんがある子のことを「小児がんの子」とは呼ばない)、「ダウン症の子」ではなく「ダウン症のある子」と表記することを知った。日本ダウン症協会のホームページ(https://www.jdss.or.jp/family)でも「ダウン症のある人」と書かれている。元彼氏は、会ったことのない私のいとこのことを、「ダウン症の子」だったり、彼の発言にもあるように「障害者」として認識していたのだと思う。福祉の仕事に従事していたりライフワークとして障害者と関わっていたりする人と話をすると、多くの人が「障害者と一緒に活動すると、すごく楽しいんです」とか「毎日笑いがあります」といきいきとした表情で教えてくれる。だけど、決まってその後に「語弊があるかもしれないけど」とか「こういう表現が正しいのかわからないけれど」といった言葉が続くことが気になっていた。たとえばサービス(接客)業をしている人が「お客様と接するのが楽しい」と語ったとして、わざわざ「語弊があるかもしれないけれど」と一言添えることはないだろうし、保育士に仕事のやりがいを質問した場合、「子どもと接することはすごく楽しいです。笑顔になります。語弊があるかもしれませんが」とエクスキュースすることはまずないのではないか。一般企業に当てはめてもそうだ。同僚や上司・部下と仲が良くて「仕事が楽しい」と言うときに「こういう表現が正しいのかわかりませんが」とは言わないだろうし思ってもいないだろう。障害者と関わる人たちが、障害者と関わることを「楽しい」と表現するとき、「語弊があるかもしれないけれど」と言わざるを得ないのはなぜなのか。そこに予防線を張らなくてはいけない理由、配慮をしなくてはいけない理由があるとしたら、それは一体どういうものなのか。いま関わっているある仕事で、たびたび障害者について触れることがあり、アウトプット(文章化)する際には必ず「障害」ではなく「障がい」とするよう指示がある。「障害」という言葉は、障害者を傷つけるだろうか。またあるとき、その仕事の中で障害者を「障害を持たれている方」と言った人がいた。その人は一体、障害者に対して、何を配慮している(つもりになっている)のだろうか。「私たちの目には障害者に見える人が、自分自身を特別に障害者とは感じずに生活していることもあります。障害の程度は、障害者にたいするその他の人々の態度や、環境がどれほど障害者のために整えられているかにも大きく依存します」(『あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書』)という言葉がある。よく言われることだが、障害は本人ではなく社会の方にある。「障害者にたいするその他の人々の態度や、環境」を障害者のために整えることにより、障害の程度を軽くすることだって可能なのだ。「害」という言葉(文字)に引っかかるのは、障害が、障害がある人を指すネガティブなものだと考えているからだろう。けれど、障害が社会にあると考えた場合、障害を無くすことができていない社会や社会を作っている人たちの方にこそ問題がある。生きていく上での障害を作っているのは誰かということに思いをめぐらせる必要がある。「ぼくは国籍や民族について、そこまでセンチメンタルに捉えていない。それでも日本人がこんなふうに朝鮮人のことを詠った詩を教えてくれる島田さんに、どこか安心もする。うれしいとはまたちがうけど、ぼくが外国人でも大丈夫なんだと思えた。考えてみると島田さんの態度から、ぼくが外国人であるということを感じさせられることは一度もなかった。だからといって、外国人として意識しないようにしているわけでもなさそうだった。見事なバランス感覚である。事実、ヘンに気を遣われても、まったく配慮がなくても傷つくことがあるものだ」。『夏葉社日記』の「朝鮮人の詩」を読んだとき、自分のなかでずっと言葉にならなかったものの正体を見つけたような気がした。いつか仕事相手と話をしていたときに、話の流れで私が「発達障害があって」とうっかり口を滑らせてしまい、相手の人はすかさず「いやいや、そんなこと言わないでくださいよ。障害っていうとあたかも悪いことみたいな言葉だけど、発達障害の人は、人とは違ったペースで生きているだけですよね」とフォローをしてくれたことがあった。そのときに私が気になったのは、私は何をフォローされているのだろう、ということだった。発達障害がある。それは「人と違うペースで生きている」という言葉で説明できるほど簡単なものではなく、ふつうに生活をするなかで困難があったり困りごとがあったりすることなのだ。もちろんその場で、発達障害について詳しく聞いたり同情されたりしたかったわけではない。だけど、なかったことにもされたくなかった。「ヘンに気を遣われても、まったく配慮がなくても傷つくことがあるもの」なのだ。「障害者と関わるのはすごく楽しいです、語弊があるかもしれませんが」について考えていて思ったことは「健常者と関わるのはすごく楽しいです」とは言わないということ。そう考えると、私たちはみんな同じ人間であり、目の前にいるのは一人ひとりの人間であって「障害者」という人間ではない、という意味で「語弊があるかもしれない」というのはわかるような気がした。だけど、その人たちが実際に関わっていて楽しいと思うのは、変な忖度がなかったり、裏表がなかったり、余計に空気を読んだり無駄に気遣を使ったりしない、素の人間として関わることができる障害のある人たちである(すべて障害者と関わる当事者から聞いた話だ)。その人たちにある障害をないことにはできないのだ。私たちはみんな同じ人間だけど、それぞれに異なる価値観や考え方、個性があって、ある意味では同じ人間ではない。ということを言いたくて今朝「わたしたちはみんながおなじにんげんでそれぞれがちがうにんげんである」という短歌を詠んだけど、これは短歌では十分に伝わらないと思ってブログを書いた。