原稿フェスティバル3日目。毎日朝から石川県立図書館へ通い、せっせと原稿を書いている。8月後半から10月くらいまでスケジュールが詰まっていて、何かが予定通りにいかないとたぶん全てが崩壊する。だから先週取材した7件分の原稿をすべて今週中に書き終えないといけない(し、定期の仕事のアポイントを今週中に全て取り終えないといけない)のだ。今日も10時から原稿を書いていたら気が狂いそうになって(というか昨晩からメンタル崩壊は始まっていた。仕事を終えて帰ってきた夫につっかかって「大変なんだよ」とか言って泣いたりした)ひと息つこうと雑誌コーナーへ行き、久しぶりに写真雑誌「IMA」を開いたら心が落ち着いた。そういえば、私は写真を見るのが好きなのだった。数年前の断捨離ブームでほとんどを手放してしまったけれど、「IMA」を定期購読していた時期もあった。FlickrやTumblrで海外アーティストの写真を漁っては気に入ったものを個人輸入したこともあった。脳が疲れていて文章を読めなくても写真集だったらなんとなく眺めて楽しむことができる。自由に解釈できるものが好きだ。私が好きなシガーロスはアイスランド語と彼らが独自で作ったホープランド語という言語で歌っていて、聴いていても意味がわからない。歌詞を自分が知っている言葉に置き換えることができないから、かえって私はシガーロスの音楽を自由に解釈することができる。というよりも、感じたままに感じていて、シガーロスの音楽を自分のなかで言葉に変換することもしない。意味があるようでない、言葉のない世界が心地よい。高橋源一郎の『「書く」って、どんなこと?』のなかで、“わたしの中の「わたし」”の比喩として、昼の「わたし」と夜の「わたし」のような書き方がされていた。昼の「わたし」は社会の中の一員としての私。世の中のルールに沿って生きている私。会社員としての私。学生としての私。母としての私。ひるがえって夜の「わたし」とは、さまざまなしがらみやルールに縛られない、自分の心のなかにある本当の私である。この昼と夜の例えを読んだときに私はいまいちピンとこなくて、どうしてだろうと考えたときに、自分の場合はこういう「わたし」の使い分けが得意ではないと思った。自分のなかにもともとわたしと「わたし」がいて、それを上手に昼と夜とで使い分けることができない。みんながふとしたときに「わたし」の心を聞いて寂しくなったり切なくなったりするものが、昼も夜も関係なく表出してしまう。昨日、「たったいま百万円を手にしても実現できるものでもないし」「どこへでも行こうと思えばいつだって行けるってこと忘れたくない」「我慢にはほとんど意味がありません。食べろ行け会え遊べ飛べ笑え」という短歌を詠んだ。私が抱えている漠然とした切なさの根源には、「いますぐやりたいことをいますぐにはやれない」ということがあって、それはたったいま大金を手にしたところで解決できるような問題ではない。例えば仕事も家庭もすべて投げ出して明日から世界一周の旅に出ることができるだろうか。今週末に三泊四日の青森県ひとり旅へ行ってくることができるだろうか(これはがんばればできるかもしれない)。どの程度の願望だったら無理して叶えても良くて、どの程度のものは我慢した方が良いという判断がうまくできない。どの程度の自我なら通してもよくて、どこからは他人の言い分を優先した方が良いのかわからない。X(もはやツイッターでもXでもどちらでも良い)のタイムラインで「暮らしより大切なものがある人間は、いかにして暮らせばよいのだろうか?」という向坂くじらの言葉を見かけた。いまある生活や人間関係をぶっ壊したいなんて微塵も思っていないけれど、自分の願望はいつも安定した暮らしの対極にあるように感じる。