日記

なにかのなにかで(なんにも覚えてない)滝沢カレンが、誰かと喋っているときに話があっちへいったりこっちにいったり、はたまた話の展開が急に変わったり、遠くに行ったと思ったらまた戻ってきたりすることはヘンだとか支離滅裂みたいに思われてしまうけど、文章であれば、話が急に展開したり話が飛んだりというのは別に変わったことではなく、そういう意味で自分は安心して文章を書くことができるし、人に読んでもらうことができるし、だからこそ文章が好きであるみたいなことを語っていたのがなんとなく印象に残っている。私が言葉(文字)に頼るのもそういう理由かもしれないと思ったのは、対人でのやりとりにおいて圧倒的に失言や余計な一言をしてしまうことが多いからで(このあいだも取引先の目上のひとに発達障害があることを暴露したばかりである)、緊張すればするほど余計なことを言ってしまうし、興味がない話は聞いてないし、適当にうなずくし、関心があれば無限にマニアックな話をしたりどんどん話が変わっていく、というのは他人から指摘されてよく気づくことなのだけど(10、20代の頃は「ぶっ飛んでる」みたいに表現されることも少なくなかった)、書き言葉、文章であれば失敗が少ないから、本当は自分はこういうことを言いたいのだ、伝えたいのだということを形にしたくて文章に頼っているというところが多いような気がする。先日少し書いて下書きに戻したブログがあって、それは、私はライターと呼ばれることに違和感があるという話なのだけど、消した理由の一つは世の中にはライターという肩書きに誇りを持っている人がいるから(当然のことだ)で、そういう人たちをサゲたいわけではないということ(でも自分が書いた文章ではそのように伝わる恐れもあった)、もう一つは、別に自分はライターという肩書きを目の敵にしているわけではないからだった。そのときの気持ちをもっと掘り下げて考えてみたのだけど、まだ上手にまとまらないままでいる。下書きしていた記事を引っ張り出して改めて読んでみる。ずっとライターという肩書きに対する抵抗感があった。コロナ禍で会社が潰れて、あらためて起業に就職する気にもならないし流れでフリーランスとして仕事することを決めたものの、フリーランスとして自分は一体何ができるのか。新聞記者だった自分。地域情報誌の雑誌の編集部員だった自分。でも会社という枠から離れると、記者でもないし、編集部員でもない自分。記者はライターなのだろうか。記者はジャーナリストではないか。私はジャーナリストなのだろうか、ちょっと違う気がする。雑誌時代にはライターと編集者を兼ねていたし、編集者として連載を担当することもあったけど、編集者という仕事を理解している人は地方にはあまり多くないように感じる。取材をしたり文章を書いたりすることはできるからひとまずライターを名乗ったけれど、ライターと名乗ることにより、これまで積み重ねてきたキャリアをかなりざっくりと、ライターとそれ以外に分けて切り捨ててしまうような寂しさがあった(いちおう名刺にはライター・編集、みたいに書いているが、だいたいの人からは「ライターさん」と呼ばれる)。以前ブログに、キャリアがなくても書くのが好きとかちょっと得意みたいな感じで誰でも簡単にライターと名乗れてしまうことが嫌、みたいなことを書いたことがある。現実として、編集プロダクションや出版社などでの経験がなくてもちょっとした店紹介の記事程度なら書けるという人が活躍しているweb媒体などは多い。それ自体が悪いことではないのだが、一緒くたにライターといわれると少し抵抗感がある。表現に関わる人であれば、個人的には一度でいいから大きな組織に属して表現することや発信力を持つことの恐ろしさ、書くことの加害性を認識した方がいいと思っている。独立したばかりの頃に私がそんな話をしたら、夫から「メジャーで活躍しているサッカー選手が、高校で一所懸命サッカーしている青年たちのことを“俺たちと同じサッカー選手を名乗らないでほしい”なんて思わないんじゃないか」と言われて一度は納得したけれど、よくよく考えてみたらメジャーで活躍しているサッカー選手、それはつまり「プロの」サッカー選手である。さて、プロというのは誰が決めるのだろう。自分で勝手に名乗っていいものではないような気がする。とすると誰かから与えられるお墨付きのようなものなのか。例えばライターや編集者、デザイナーが自分自身で「プロのライター」や「プロのデザイナー」などということはあまり聞かない。私はいつになったらプロになれるのだろう。というか、私は何を目指しているのだろう。自分はフリーランスになった時点でこれまでのキャリアやプライドを脱ぎ捨てたつもりでいたのだが、実はこれまでやってきた仕事に対するプライドや誇りがあったのだということに気が付いたのは最近のことである。SNSで親近感を抱いている同業者の方が「編集という仕事とライターという仕事は、似てるし兼任できるし、お隣さんって感じなんだけど、結構役割が違くて、」と書いていた。そう。似てるし兼任できるしお隣さんって感じなんだけど、そこには当人にはわかる違いがあるのだ。そして、細かいことにこだわるようだけど、その違いを意識すること、こだわりを持つことはフリーランスとして仕事をする上で実は大切のような気がする。秋月圓(しゅうげつえん)というひとり出版社から、秋峰善さんが書いた「夏葉社日記」という本が出版された。私はこの本に編集協力として携わったのだが、本が完成したときに、秋さんから私は編集者としての仕事をしたと言ってもらい、とても嬉しかった。ライターでも編集者でも、キャリアに関わらず自ら名乗ることができてしまうものだからこそ、他者から認められる・評価される経験というのはとても大きなことである。ライターでも、編集者でも、プロになりたい。というかこれで仕事をしているプロであるとそろそろ自信を持ってもいいのだ。プライドを持つべきなのだ。良い仕事というのは、関わった人が新しいことに挑戦できたり、良い仕事ができたと自信がついたり、関わることができて良かったと実感できることだと思う。秋さんが「夏葉社日記」の制作を通じてやってきた仕事は関わる人にも大きな影響を与えているし、私は「夏葉社日記」に関わることができて、自信につながった。良い経験をさせてくれてありがとう。