日記

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昨晩、むすめのリクエストでほぼはじめて「Lilo&Stitch」を観た。冒頭からリロの言動に妙な親近感というか、自分に似たようななにかを感じて、ネットで調べたらやっぱり同じことを書いているひとがいた。リロは自閉スペクトラム症ASD)もしくは自閉症(Autism)だって。「ファインディングニモ」に登場するドリーは明らかにADHDで、すぐ忘れちゃうことに苛立つニモの父・マリーンが「君は頭がおかしいのか?」(うろ覚え)というシーンはけっこうキツかったけど、リロに対する同年代の子どもたちの反応やドリーに厳しい態度を取ったマリーンを理解できなくもない。今年の夏くらいにASDADHD と診断されてから、ようやく自分の生きづらさのようなものに名前がついたことで納得いくような気持ちになったが、一方で、たとえばEテレのハートネット TVをみているときに発達障害者が障害者として紹介されていること、最近あった「全国障害者芸術・文化祭」のなかに発達障害者が含まれていることなどに対する違和感、言ってしまえばショックみたいなのがあって、これは私のなかにある障害者に対する偏見や差別なのかなんなのか。以前読んだ記事にあった「私たちは定型発達という障害を抱えている」という言葉、非定型発達者(エイティピカル)つまり発達障害者からすると、変わっているのは定型発達者(ニューロティピカル)であって、ニューロティピカルからすればエイティピカルは「障害を抱えて」いるが、逆にいえばエイティピカルからみたニューロティピカルも「テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣」したり「特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある」ような障害があるのだと。私が自分自身を障害者というのに抵抗があるのは(わざわざ表明する必要もないのだが)、障害(ディサビリティ)という言葉に含まれるネガティブなイメージのせいであり、本当は私が持っている特性はネガティブなものではなく、それが世の中の大多数であるニューロティピカルとは違ったものである、それだけなのにと思う(似たようなはなしは以前書いた「ふつうがくるしいふつうがくるしい - nov14b’s blogで)。不安が強く、感覚過敏と感受性が人よりも強いため、それらを和らげるために自立支援医療制度を使って服薬を始めたが、「自立支援」という言葉もまたこころに重りを沈められたような、なんとなく自分は負の要素を抱えているような気分になるのだった。結局、今年は「発達障害」という言葉に出会ったことによって、それに結構振り回されている感が否めない。