考多様性

いまちょっと携わっている仕事で、事前にいただいた資料に「多様性」がポイントであることが書かれていたのだが、たとえばいまの時代に企業が多様性を押しにしている場合、あえて多様性と謳う場合、それはどんなことを発信しようとしているのだろうと考える。わたしは今年に入って自分が発達障害だとわかり、これは後付けのような気もするのだけど、フリーランスとして働いているいま、結果的に自分の特性に合っていてなるべく精神的負担なく仕事ができるのは会社員ではなくフリーランスという働き方だったなと思う。で、そんな背景から多様性を尊重している会社と聞いたときに、昨今特に耳にするキーワードなので、当然発達障害者の特性に合わせた働き方とか?幅広い障害に合わせた働き方とか?人によってリモートワークしたり?出勤するかどうかも自由に決められたり?女性の役員比率が高かったり?みたいなものを想像したのだけど、どうもそうではないようで、人ってそれぞれ違うよね、それぞれできることもやりたいことも違うし、ステップアップの方法も違う。それぞれに合わせた働き方がここにあります、みたいな感じで想像していたものとはちょっと違かった。っていうか、障害者雇用促進法があるように法律でも障害者雇用が義務付けられていて、女性の社会進出がこれだけで進んでいるなか、社会に、企業に、障害者や女性がいることは当たり前であって、別に今更取り立てて多様性とか言うことでもなくない?という流れで自分に対して疑問に思ったのは、「障害者や、宗教や性自認性的対象が人と異なるひとが組織や集団のなかにいること」が多様性なのか?ということで、大大大前提として人はみな同じように見えるだけでそれぞれ独立した人格を持ち背景を持ち事情も異なっているので、そこに障害者や病気がある人やマイナーな宗教を信仰するひとや性的マイノリティがいようといなかろうと広い意味では多様性は「ある」のであろう。逆に、「弊社は障害者もいてムスリムもいてゲイもレズビアンもいる多様性のある会社ですよ」みたいなこと言われたらびっくりする気がするのだが、それって社会には障害者もいてムスリムもいてゲイもレズビアンもいることが当たり前なのに、あえてそういった人たちのことを「普通ではない人」とカテゴライズして、「普通の人もいれば普通以外の人もいる」と謳っている状態、それってなんか変だよねでもけっこうそれが社会で当たり前にまかり通っていない?そうじゃなくてあらゆる、本当にあらゆる人が社会にいるこの世界にいることが「当たり前」のはずなのに。で、で、「こういう社会(会社)が多様性」というのはちょっと言葉足らずで、結局、「多様性を“認める”社会(会社)」ですと言っているにすぎないハナシだとは思うのだが、「認める」人は誰で「認められる」側はどちらなのでしょうね。わたしはNHKのプロジェクト・あおきいろのテーマソング「ツバメ」が大嫌いなのだが、初めて聞いたときに気になったのは歌詞の次の部分で、やはりこの「許す」「認める」の背後にある無意識の上下関係を意識せざるを得ず、うすら居心地のわるい気分になったのだ。「悲しい気持ちに飲み込まれて心が黒く染まりかけても許すことで認めることで僕らは繋がり合える」。最後になるが、はじめて作ったzineでも引用しているある言葉を書き添えておく。「『他の人と違う』ことは本来は単なる事実であるが、それを『普通じゃない』とするとネガティブな評価になる」(「おとなの自閉スペクトラムメンタルヘルスケアガイド」より)。や、本当に、みんなが言う「多様性」って何?ってなっちゃった。