日記

さいきん「ひとつにならない 発達障害者がセックスについて語ること」を読んでいるのだが、昨日読んでいたところに、付き合っている女性のバイト先に突然現れ物陰でオーラルセックスを強要した男性のことを「えげつなさがいかにも定型発達者だと思った」という表現がありたいへん驚いた(昨晩、はじめこの文章を「えげつなさがいかにも発達障害者だと思った」と勘違いしたツイートをしてしまい、後から読み直して間違いに気づき反省した)。著者は文学・当事者研究を専門とする京都府立大学准教でASDADHDの当事者ということだが、発達障害の診断をつけられる医師とは違う立場から、誰かの一つの言動をもってして「定型発達者」と断言したり、また別の誰かのこと(本のなかでいう発達障害当事者)を「いかにもASDらしい言動だ」と書いたりしていることに違和感を覚える。ちなみに私がこの本を買ったきっかけは単純に良い企画だと思ったからなのだが、発達障害について医学の専門ではない人がもっともらしく発達障害者の「特性」について語っているというのは大丈夫なのだろうか。まあ「医学書ではないです」と言われればそれまでなのかもしれないけれど。で、今日知能テストの結果を聞くついでに発達障害に関する様々な疑問をぶつけてきたのだけど、話を聞いていると、どうやら発達障害は「診断がつく・つかない」でしかないのであって、医師は「軽度のASD」とか「ADHD気質」のようなあいまいな表現はほとんど使わないということだった。じゃあこのあいだ私が読んだある記事にあった「私はごく最近、病院で発達障害だと診断されました。軽い自閉症スペクトラム障害(ASD)と注意欠陥多動障害(ADHD)だということです」とはどういうことなのだろう。人のことはさておき、これまでさんざん発達障害に関する文献、本やネット記事を読み漁ってきたが、発達障害の診断は特性のグラデーション(濃淡)ではなく日常生活を送る上での困難さ・障害に起因する、つまり個人だけの問題ではなく環境も大きく作用している=一概にこういう場合は発達障害の診断がつくというものではなく極めて曖昧なものであるという発達障害自体の特徴もあわさり、それに乗っかってどうやらいろんなひとがかなりテキトーに個人的立場・主観から発達障害に関する情報発信を行なっていると知り、急激に発達障害に対する興味がなくなってしまった。診断受けることもどうでもよくなったし、もう十分理解したのでこれ以上何も知らなくてもいいというモード。こんなことを相談員の方に話していたら「まあ、その思い切り調べて突然興味がなくなるというのも特性の一つと言えますけどね」と笑っていた。