他人事にしたくない

外国を訪れるたびに、自分のなかにこれまで無意識のうちに醸成されてきた偏見や差別に改めて気づかされる。それから自分のなかの違和感と向き合い、一つずつ、その偏見や差別を払拭する作業をしていくのだ。

 

昨春、2度目の訪問となったサンフランシスコ。一人でアジアンアートミュージアムに向かう途中、間違って「治安最悪」と言われるテンダーロイン地区に足を踏み入れてしまった。私はなるべく不安な表情を出さないように気を付けながら、急ぎ足でそのエリアを通り抜けた。そのときに感じた疑問が当時の日記に書いてあった。

 

 

なぜホームレスは汚いと言われるのか?
ホームレスがいる街は治安が悪いのか?
人はなぜホームレスを軽蔑するのか?
なぜ黒人を怖く感じるのか?
ホームレスは犬を飼ってはいけないのか?
なぜ人は家や職を失うのか?
それは本人だけの原因なのか?

 

 

(※これらの疑問はわたしが日本の状況を照らし合わせた上で抱いた疑問なので、単にテンダーロインの状況を書いたものではないです)

 

 


サンフランシスコの街なかで“Black lives matter”と書かれたフラッグを目にすることがあった。新型コロナウイルス感染拡大防止のため国を超えた連帯が求められる今、なぜアメリカ一国内で分断が生まれているんだろう。違う、ずっと差別はなくなっていないのだ。

 

アメリカを訪れるたびに、心がヒリヒリする感じがする。アメリカに住む人はみんな、この「ヒリヒリ」を感じながら生きているんじゃないかと思う。幸か不幸か、日本で「ヒリヒリ」を感じることは少ない。

 

たとえ遠く離れた国の誰かを想い心を痛めたところで現実は変わらないと言われても(言われたことあるけど)、どうやって「自分には関係のないこと」と言えるのだろう?私は誰かが差別されている状況を「自分には関係のないこと」と言って沈黙したり、突き放したりする自分でありたくない。

 

 


どんな場面でも自分が「マジョリティ」でいられる保障なんてどこにもない。一つの差別を許すことは、他の差別を許すことにつながる。誰かを許容しない/できない社会は、一体、自分にとって生きやすい社会なのだろうか?私は、自分のなかにある差別心に無自覚でいたくないし、世の中の差別に鈍感でありたくない。

 

 


より良い社会を作るために必要なこと、それは自分が受けたことがない心の痛みを少しでも想像すること、自分の身にふりかかったとのない差別を自分ごととして考えることだと思う。たとえ自分が被差別者じゃなかったとしても、他人を想って共に声をあげることができるアメリカの人たちは素晴らしい。

 

 

 

誰かの権利を守ることは、自分の権利を大切にすることにつながる。全ての人の命が平等に扱われる社会をつくりたい。