日記

 ネットを見ていて、日本政府や政治家の方針や言動に「日本は戦争に向かっている」とか「戦争はすぐそこ」みたいな投稿を目にすると、何ていうか、戦争が起きてほしくないと望んでいるはずなのにむしろ戦争を欲しているように見えることがある。もちろん危機感や不安から発せられる声なのだろうけど、結果として、そういう声が大きくなることが戦争へと向かう空気を醸成するみたいな、パラドックス的な。SNSの普及・浸透に伴い言葉偏重の傾向はどんどん強くなっていっている気がしていて、言葉で説明できないものは存在しないとまではいかないにしろ、言葉で表現すること、もしくは言葉で表明することが求められている、そんな雰囲気を感じることが多くなった。言葉を仕事にしている自分が言うのもどうかと思うが、本当に、言葉はそこまで重要だろうか。逆に言えば、なぜそこまで言葉が求められているのだろうか。例えば、嫌味な言い方になるかもしれないけれど、戦争が起こるを怖がることそれ自体は決して悪いことではないが、本当に戦争を回避したいのであれば「戦争はすぐそこだ」と煽るよりも、もっと重要なことがある気がしていて、それはあなたが平和に生きることなのではないかと思う。態度で平和を表すこと。平和な日常を大切にすること。平和を続けていくこと。「声をあげて平和を求めるだけではじゅうぶんではない。平和を勤め、平和に生き、平和のうちに暮らさねばならない。」とは私が度々引用している北山耕平の本『月に映すあなたの一日:ネイティブ・アメリカンの364のことわざが示す今日を生きる指針』に出てくるシェナンドー族に伝わることわざだが、平和を求めるというのは決して禁欲的に生きることではなく、貧しい人と共に貧しくあるのでもなく、率先して平和を謳歌すること、平和の輪を広めていくことではないだろうか。また、今年に入ってから読み続けている『植物と叡智の守り人』にはこう書かれていた。「もしもあなたが教師であるにもかかわらず、あなたの知識を伝えるための声を持たないとしたらどうだろう?もしも言語というものが存在せず、それでも何か伝えなくてはいけないことがあるとしたら?あなたはそれを踊りで表現するのでは?あなたはそれを演技することで表現し、あなたの体の動きの一つひとつが物語を語りはしないだろうか?そのうちにあなたの表現はとても豊かになり、誰もがあなたを一目見れば言いたいことがわかるようになる。」あなたが平和を表現すること。言語だけに頼りすぎないこと。それは決して難しいことではなくて、言葉に飲み込まれないためにも、すべきことなのだ。三年前、産後一ヶ月が経った頃、前職でとてもお世話になった上司が生まれたばかりの娘に会うため家まで遊びにきてくれた。上司はバウンサーの上で気持ち良さそうに眠っている娘の顔をじっと見つめて「赤ちゃんは白目が美しいよね。大人になってくるとだんだん濁ってくるけど、赤ちゃんは青白いくらいに白目が綺麗なんだよ」と話していた。結局、深い眠りについていた娘は上司が家にいるあいだ一度も目を覚ますことはなく、初めての育児に疲労困憊していた私は上司の話を聞きながらもよくわからずにいた。先週、昨年の冬に予約して以来ずっと楽しみにしていた東京ディズニーリゾートへ家族で遊びに行ってきた。早朝に目を覚まし、手際良く支度をして、まだ目も開かない娘を抱き抱えてタクシーに乗り金沢駅へ向かう。二時間半の新幹線乗車を経てまたタクシーに乗り到着した先は舞浜駅。ホテルに荷物手続きをするためウェルカムセンターへ向かうと、これまで見たことがない建物や制服に身を包んだスタッフを目にして舞い上がった娘は「ドレス着たい」とさっそく持参した「アナと雪の女王」のエルサのドレスを着た。すれ違う人たちに「エルサ!」と声を掛けられて上機嫌のままリゾートラインに乗り、まずは東京ディズニーシーへ。手荷物検査を終えて園内に一歩足を踏み入れると眼前に現れる大きな大きな地球儀、そして足を踏み出すのも忘れて立ち尽くす娘の姿。両手を胸に当てて、ただただ地球儀を眺める娘の表情、そして透き通るように美しい目を私は今も忘れることができないし、これからも一生忘れることがないだろう。誰にも私の平和を邪魔させないし、平和を壊させもしない。そして強さとは、強く生きるとはこういうことなのではないかとそのときに思った。