寂しさと一生一緒に生きていく

発達障害についてのポストをよくブックマークしているから、X(旧ツイッター)の「おすすめ」欄にはたびたび発達障害についての投稿が流れてくる。「もしも自分が発達障害かも?と思ったら、生育環境や親との関係を振り返ってください。それは愛着障害かもしれません」とか、「ASDと診断がついた人でも、実は複雑性PTSDという場合があります」とか。最近調子があまりよくない。昨日は保育園を休んだ娘の子守りをしていた夫に頼まれた箱ティッシュとコーヒーを買って帰るのを完全に忘れていた。たまに発する声のボリュームがおかしくて、極端に大きかったり小さかったりする。ぼーっとしているしなんとなくずっと眠いし食欲もあまりない。理由はたぶん家族のことを振り返っているからで、おとといは悪夢を見る睡眠導入剤を飲んだら就寝前にすごくつらい感情がフラッシュバックして、かえって眠れなくなった。書くためには自分の人生を振り返らなきゃいけないし、どうしてだったんだろうって考えなきゃいけないし、その延長で「それでよかったのだろうか」とか「こっちの道はなかったのか」とか考えちゃったりして、産みの苦しみと言ってしまえばそこまでだけどなかなか労力がいるし疲れるものである。物事の捉え方、世の中の見え方を変えることはできるけど、根本的な性格とか特性は変えることができないと思うし、自分のなかにある寂しさみたいなものはどこまでいっても消えないと思う。楽しいときとか何かに集中しているときにはそれが気にならなくなるけど、何もしていないときとか考えごとをしているときには寂しさの存在感が増すみたいな。私がたびたびXで言及しているきゃりーちゃん(※きゃりーぱみゅぱみゅ)のweb連載、改めて読み返してみたら私の拡大解釈みたいなところもあったのだけど、幸せになりたくて結婚したり子どもを産んだりしているはずの友人たちが、実際に結婚したり子どもを産んだりすると「結婚生活や子育ての愚痴も言うという…。その愚痴を聞いていると、そういうふうに追い込まれちゃうんだ、まだ自分はそこにいないんじゃないか、自分は結婚して「今超幸せ~」みたいにはあんまりならないんだろうな」と書いていて、いやいや幸せになるために結婚しているわけじゃないよ、と思いつつ、自分も同じように考えているところがある気がした。結婚して子どももいるのに寂しい私は変なのだろうか、という気持ち。でもそれって結婚がポジティブでハッピーなものって思っているからで、結婚がただの「形」でしかないと思えば、結婚している私が寂しくなるときがあっても当たり前のことである。結婚しているけど寂しい、それは間違いじゃないし、誰にだってそういうときはある。寂しさは簡単にはなくならなくて一生一緒に生きていくものなのだろう。