日記

いつからか「好きな食べ物は?」と聞かれて、答えに窮するようになった。帰省するたびについつい買ってしまうぽっぽ焼き。週末に料理をするときは冷しゃぶサラダや鍋といった簡単なものが多いが気分によっては手間のかかる料理もする。めちゃくちゃ疲れたときにはあのパティスリーに行って、人恋しくなったときにはあの人がいる町中華に顔を出す。カレーを食べたい気分のときに決まって足を運ぶ店もあるし、お気に入りのパン屋さんもあるけれど、どれも好きな食べ物というよりも、好きな人や店だったり、料理をするのが楽だったり、自分自身のルーティーンに組み込まれたりしているからという理由の方が強いような気がする。つまりは程度がわからなくて、どれくらい好きなら「好きな食べ物」ということになるのか、好きの度合いが低かったり、「最近のお気に入り」程度だったりするものは自分にとって好きの部類に入らず、極論「私の人生を総合的に判断し、好きなものを挙げるとすればそれはSigur rosと濱谷浩です。」みたいな話になってしまう。確定申告に向けて書類を整理していたら、昨年の春に買った「ひとつにならない 発達障害者がセックスについて語ること」の領収書が出てきた。発達障害にハマっていたのはたった一年前のことだったのかと思い出すと同時に、私はなんで診断を付けたかったんだっけ?と疑問に思う。薬を処方されたかったのもある。自分の特性に納得したかったのもある。でもそれ以上に、第三者に説明できる何か、自分が悩むこと、それ自体は間違っていないのだというお墨付きのような何かを手にしたかったのではないだろうか。ワンシートzine「ふつうがくるしい」(ふつうがくるしい - nov14b’s blog)の内容をブログで全文公開したときに、ツイッター上で「この人は発達障害じゃないと思うな」という感想を見かけた。結果的に診断はついたわけだが、発達障害に限らず、人が落ち込んだり悩んだりしていることに対して客観的を装って考えすぎだとか大した問題じゃないと言う人は少なくない。誰かに「それは大した問題ではない」と言われるとき、そのことに救われることがある一方で、自分の悩みを過小評価されたような気持ちになることもある。診断がないと認められない生きづらさって何だろう。どうして人が悩んだりつらい思いをしたりしていることを認められないんだろう。違う、そうじゃない。他者がどう受け取るかは問題ではない。どうして私は自分のつらさや悩みをそのまま受け入れることができず、客観的な判断に頼ろうとしていたのだろう。自立支援医療制度を利用するため形式上私に付けられた診断は双極性障害だった。低容量ピルを保険適用で処方されるために生理痛が重い「ということ」にするのと、自立支援医療制度を利用するためにあえて双極性障害の診断をつけるのはなんだか似ているような気がする。本音の症状、建前の診断。中学生の頃、定規で手首に傷をつける擬似リストカットにハマった。あるときたまたま私の手首の傷を見た母が咄嗟に「やだ、こわい」と言ったとき、私はこの先ずっと母親から心の痛みを理解してもらえることはないのだろうとショックを受けたが、いま振り返ると当時の心の痛みなど大したものではなく、皮膚むしり症と同じように一度始めたことを止められないだけだった。母には発達障害の診断を受けるにあたって生育歴などの問診に協力してもらったが、診断がついたにも関わらず「お母さんは発達障害じゃないと思うな」と言い続けている。そしてそんな母に、私は救われているのだ。