物事の定義

「ペット」の定義は難しいと思う。

 

 近年では従来から使われてきた「ペット(愛玩動物)」という言葉に対し、「コンパニオンアニマル(伴侶や家族)」という考え方が一部で広まってきている。

 

CNNニュースによると、とりあえずスペインでは「金魚」や「めんどり」はペットとみなされないらしい。

 

www.cnn.co.jp

 

 

もちろん、このケースにおける「ペットかどうか」は「散歩の必要性があるかどうか」という特殊な状況下での特殊な定義付けなんだろうけど、とにかく人間は人間の都合で、その時々の事情により簡単に定義を変えるものだと思う。

 

 

わたしが自称「自然派(?)」になるきっかけとなった『大文字山を食べるー山菜・キノコ採集記ー』(安田陽介著)。

著者の安田さんは京都に暮らし、「大文字山」に毎日のように登っては、そこに自生している山菜やキノコ、木の実などを採集・食している人だ。

 

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今や定番となった、一月にスーパーなどで売られる「七草セット」について、彼はこう書いている。

 

本当に貪欲な勢力だ、商品経済というヤツは。かつて野草と野菜は同一民族だった。それが商品経済によって野菜はその奴隷にされてしまった。民族分断。そして今また、商品経済は侵略の魔の手を伸ばし、一部の野草を捕虜にしてしまっている。それが「七草セット」という商品だ。かわいそうに、奴隷のように栽培された七草が、さも野生のもののような顔をして売られている。ふだんは「雑草」という呼び名で蔑まれている野草たち。それなのに「金になる」という時だけ掌を返したようにすり寄って、誘拐して飼い馴らしてしまう。

 

(これだけ読むとちょっと過激な感じがするので、気になる人は一冊読んでみてもらいたいのだけど、)彼がここで強調しているのは、スーパーに並んでいる「野菜」とは、人間の都合(商品化し金儲けできるという理由)で値段を付けられ、「野菜」(食用)カテゴリーに分類されてしまった、ということ。

人間の都合による、野草と野菜の定義づけ。

 

 

昨年、開高健ノンフィクション賞を受賞した『聖なるズー』(濱野ちひろ著)。メインテーマであるズーフィリア(動物性愛)の人々にとって、すべての犬=ペットでもなければ、すべての犬=パートナー(伴侶)でもない。心を通わせた犬とパートナーシップを結ぶこともあれば、犬を伴侶としつつ、ペットとして他の犬を「飼う」ケースもある。

 

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「定義」ってその時々の情勢や個人の思想、市場における価値によって、案外自由に変わって(変えられて)しまう。普遍的なもののように聞こえるけれど、実は脆い。いまの世界でも、新型コロナウイルスによってこれまでの定義が崩され、新たな定義が生まれるのだろうな。

 

 

 

まとまりがない話になりました。無職8日目。