育児日記

“《アイス・ウォッチ》という、ぼくが地質学者のミニック・ロージングとやったアート作品があるんですが、その中の氷のブロックが、ぼくらがすでにデータとして知っていたことを、非常にうまくフィジカルに理解させてくれるんです。(中略)横に立ってみると、実際すごく生き生きしてる。「お、あのすごい氷見て!」なんてみんなが言っているのが聞こえました。それから次に手を当ててみて「冷たい!」と言う。これは面白いところです。というのも、彼らはもちろんこのことを、知的な意味ではすでに知っていたわけです。そうですよね?新しい情報は何もないー氷は冷たいものだ、と。でも、知的な意味で知っていたことと、フィジカルに触れたこととのすり合わせが、その瞬間に起きるわけです。自分が知っていたことと、フィジカルにつながるようになる。それに実際には、ぼくらはいろんなことを知っているんです。データが伝えてくるようなことは全部知っているんですよね。でも身体知、つまり筋肉が知っている事柄、両手が知っている事柄、ぼくらがあらためて考えてみたりしないような事柄ーそういう知は全部、説明されないまま放置されているようなところがある。それに、脳知と身体知がもっとうまくつながるようになれば、ぼくらのスキルや能力がー対人関係的にもー向上すると思うんです。もちろん、この二つが本当の意味で分離してしまったことは一度もないのですが、ぼくらが住む文化は、脳知のほうを優先するー脳が知っているのならそれで十分、というわけです。新聞で読んだよーだからもう分かってるよ、と。それに氷って、かなりそのまんまのベタなものでもあるんです。グリーンランドではふつう遠くにあるものを間近から見ると、「あ、氷ってこんななんだ!何となく知ってはいたけど、実際はすごく違う!すごく違う感じがする!」ってなる。近づいていって抱きついて、「あ、濡れた!抱きついたら濡れるだろうっていうのは知ってたけど、何ていうか、フィジカルには知らなかった」と。すごく面白いですよね。”

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる)

 

子のおむつ専用ゴミ箱が(当たり前だけど)めちゃくちゃくさくて、たまに子が手遊びでゴミ箱を開けるんだけど、あまりくさそうにしてないというか、くさいという概念そのものを知らなさそうに見えた。なんていうか私は「ラベンダーの香りですよ」と言われて嗅いだものを「良い香り」と認識しているのかも知れないし、できたてのイタリア料理がテーブルに運ばれてくればその匂いをかいで「美味しそう」と思うし、「ここがゴミ埋め立て場ですよ」と言われれば顔をしかめて不快感を露わにするポーズをするのかも知れない。

 

金沢は今週がちょうど桜の見頃で、昨日も今日も慣らし保育を終えた娘を連れて桜を見にお散歩に出かけた。両岸に桜が並ぶ河川敷に行ったとき、娘は川を見て「おお〜」と目を丸くして言っていたけれど、桜を注意深く眺める様子は特別なかった。桜も見ていたし、緑の葉がたくさんついた木も見ていた。私は桜を春だけしか見れない美しいものとして認識しているから桜を大切に眺めるのかも知れない。子はまだ何が美しくて何が美しくないかとか、何が快で何が不快かという先入観がなくて、その真っさらな世界の見方を見習いたいと思った。年齢を重ねて知識や経験を増やしたつもりになりながら、そのために視野が狭くなったり物事の見方が偏ったりしていないか自分に問い直す。

 

youtu.be

 

しばらく「にほんごであそぼ」のエンディングで流れていた「ありふれたい」は子のお気に入りソングだった。子はいい感じの音楽が流れるとそれに合わせて自然と身体が動くみたいで、「ありふれたい」に合わせて手拍子しながら膝を屈伸したり身体を左右に揺らしたりして踊っていた。「自然と身体が動く」ってことは今の私にはほとんどなくてそれ自体が羨ましいのだけど、今日公園に遊びに行ったときに音楽がないなかでも楽しそうに身体を揺らしていて、何かいいな〜って思ったのだ。音楽がなくても踊れるし踊っていいよね。ということを考えていたら、冒頭に引用した、この間読んだオラファー・エリアソンの言葉を思い出した。私はこれから身体知を意識しながら生きてみたいような気がする。