日記

高校生の頃、両親の不仲に耐えられずできるだけ家に居たくなかった私は6時台に家を出て早い時間のバスに乗って学校に向かい、終業後はバイトがなければ万代までひたすら歩くか、通学路にある図書館で本を読んだり英語の勉強をしたりするか、ラフォーレ原宿新潟(懐かしい)のHMVでひたすら音楽を視聴していた。ライアンマッギンレーが撮ったジャケットに目を奪われてそこにあった「Með suð í eyrum við spilum endalaust(読めない)」を試し聞きして打ちのめされたのが17歳だったから、かれこれ15年もsigur rosの熱心なファンなのだけど、いまでも聴くたびに新鮮な気持ちで感動するしこれからも一生好きだろうと思う。今日のこと。久しぶりに雑誌を読もうと思って犬を迎えに行ったついでに朝からツタヤに行ったけどぐっとくる特集がひとつもない。どれもわざわざ手にとって読みたいと思わない。素敵な暮らしとかあんことか住まいとかそんなのばっかりで、世の中に溢れる表現は当たり障りのないものばかりでまじでつまんないと思った。じゃあ雑誌が尖ってたときってあるんですか?と聞かれたらそりゃあったでしょうと自信を持って答えられる。好き嫌いは別としてprovokeは最高に尖ってたし昔のTRANSIT(加藤さんが編集長をしていた時代)も面白かった。世界中の情報がインターネットで誰でも簡単に得られるようになったから、と言ってしまえばそれまでだが、でも昔のポパイももっと面白かったと思う。編集者が個人的な好奇心、興味関心を突き詰めてる感じ。読者なんて後からついてくるんだよみたいな変な自信に溢れていた頃。ちなみに私が以前勤めてた潰れた会社でさえ地元の新聞社に対して批判的な記事を書いていた。別にエログロナンセンスを「尖ってる」と言っているわけじゃない。東京オリンピックパラリンピックのときに問題となったなんかの雑誌(ロッキンオンだっけ)の小山田圭吾のいじめ暴露みたいな誰かを傷つけて笑うとか、荒木経惟はじめ当時のカメラ「マン」の多くは同じようにやっていたであろう、被写体の同意もないのに「服を着ての撮影だから」とか言って本番に裸にさせて撮ったグラビアがばーんと載っちゃうことを「昔はよかった」と言っているのでは決してない。ただ最近の雑誌って、なんか当たり障りのない表現ばかりで遊びがないというかなんというか時代の流れというやつなのだろうか。はたまたこうやって過去を思い出して「いまどきの雑誌はつまらん」とかつぶやいちゃうことを老害って言うのかな..................。久しぶりのTSUTAYAでは映画館で観たいと思いながら見逃してしまったカモンカモンとミニオンズ フィーバー、NOPEとベイビーブローカー、それから娘が挿入歌である「さんぽ」にハマっているとなりのトトロを借りられて大満足だった。連続強盗事件の黒幕が「トトロ」を名乗っていなくてよかった。