日記

人生はだんだん広がっていく螺旋のようなもので、子どもたちが自分自身の道を歩み始めると、知識と経験が豊富な母親には別の仕事が与えられる。今度は私たちの強さは、共同体の幸せという、自分の子どもたちよりも大きな人の輪に向けられるのだ、とアレンは言う。その網はどんどん広がっていく。季節が再び巡って、祖母となった女性たちは「教師としての生」を生き、年下の女性の手本となる。ずっと歳をとっても、私たちの仕事が終わったわけではない。螺旋はどんどん大きく広がって、賢明な女性の教えは、彼女自身や家族という枠を超え、人間という共同体を超え、この惑星を包み込んで地球の母となるのだ。

ロビン・ウォール・キマラー「植物と叡智の守り人」

 

いい感じに雪が積もったので、夫と共に子と犬を連れて近所の公園へ。犬は慣れっこなので雪の中をずんずん進むが、子はまだ雪の楽しみ方がわからないから不安そうにしていた。遊び方を教えるのも親の役目なのだとしたら、地球の遊び方をできる限りたくさん伝えていきたい。母親として生きるってそんなに悪くないなっていうか実際に母親である自分が自分で言うのもなんだけど母親って偉大だと思ったのは子どもを生んでからで、そんな大切なこともっと前から知りたかったと思うけど仕方ない。それから気になったのは、かつての自分もそうだったけど母親になることを恐れていたり世間一般的な母親像を否定している女性たちがなぜそうなってしまうのかということで、例えば誰かの「母親になったことを公表したくない」という気持ちや、私も実際に同性から言われたことがあるのだが「自分を犠牲にして一日中子どものことを考えて本当にそれがあなたの幸せなのか」みたいな疑問がどうして生まれるのか。包み隠さずにいえば、私はそういった言葉に触れると母親のことバカにしすぎじゃないかというか過小評価しすぎだろうと思うのだけど、でもその発言が出てくる背景(理由)があるのもわかる。「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」を読んだのは去年の今頃だった。人は誰しも人生のうちに最低でも一度は他人からのケアを必要とするにも関わらずケア(労働)を低く見るのはなんでだろう。householdに関する知識や経験は、社会(ビジネス)の知識や経験と比べて低く見られるのはなんでだろう。母親となり「今度は私たちの強さは、共同体の幸せという、自分の子どもたちよりも大きな人の輪に向けられるのだ」という視点・意識を獲得すること(全ての人がそうとは限らないし母親でなくても当てはまるのは大前提)はそれ自体が素晴らしいことで、なんかうまく考えがまとまらなくなってきたけど母親的なものを疎ましがらず、むしろもっと大切にしなくてはならないのではと思ったりする。

 

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