同じ会社を二度受けたことがある。一度目は新卒採用のとき。十代の頃から憧れていた地元の新聞社へどうしても入りたかったにも関わらずまともに受験勉強をしたこともなければ大した一般教養もなかった私は一番外してはならない筆記試験であえなく落選した。新聞記者になるには、とりあえず業界に入ることが大事だと聞いたことがあった。新卒採用で全国紙と呼ばれる大手新聞社に入れなかったとしても、地方紙や業界紙でキャリアを築けば転職のチャンスがある。出版業界と似たようなものだろう。大学四年の春に一通りの新聞社を受け、ほとんど一次(筆記)試験で敗退した私は夏には就活をきっぱり辞めていた。吹っ切れてからは気楽なものだった。バイトに明け暮れ、ゼミでの勉強に励んだ。転機となったのは、暇を持て余した秋頃、時間潰しで眺めていた学生向け求人項目の中に、新聞記者の採用を見つけたことだった。鉛筆を忘れてボールペンで臨んだ筆記試験は作文問題も一字一句間違うことなくパスした。とんとん拍子で二次面接、三次面接と進み、海外ひとり旅を一週間後に控えた社長面接で、「トルコに行く前に内定が欲しい」と訴え、その場で採用が決まった。
憧れの新聞記者は初任地で出会った男性との結婚と、その後の東京本社配属に伴う単身赴任によってあえなく幕を閉じた。要は家庭と仕事の両立ができなかったのだ。そうして私は退職し、夫の地元である北陸のある地域に引っ越した。就職先を決めるのはとても苦労した。引越し先にももちろん新聞社はあったが、紙面を見る限り、私と全く考えが合わなかった。他にマスコミの仕事はないかと探していたところで見つけたのが、地域情報誌を発行する雑誌社の求人だった。公式ホームページの求人ページには「やる気があるなら応募してくれば」(意訳)みたいな、創業者であり会長の非常に挑発的なメッセージが掲げられていた。それで、燃え上がった。履歴書と共に会長に対するアンサーとなるような文章を添えて郵送すると、数日後に総務部から電話があった。内心、連絡がくるのは当たり前だと思っていた。面接のため本社を訪れると、応接室には会長と、編集長が座っていた。会長は私と夫が歳の差婚であることについて「旦那さんは初婚かね」と聞いてきた。そして「あと、うちは建物を建て替えたときの借金があるので、ボーナスはないです。それでもいいですか」の一言。「はい」と答えたことを後悔したのはたったの数ヶ月後だった。
結論から言うとその雑誌社はコロナ禍で真っ先に倒産し、私は世界的パンデミック期を失業保険で乗り切ることになるのだが、雑誌社にいた頃、常に給料に不満は持ちつつも仕事は充実していた。
大学を卒業して就職する前のこと。地元へ帰省していたときに地元紙で、ある連載記事を見つけた。地方紙と戦争との関わりや、その中での責任を問う連載で、とても読み応えのあるものだった。書き手が論説編集委員の女性であることにもまた、一段と興味を惹かれた。大学生だった私はすぐにバックナンバーを読む方法を問い合わせた。すると、連載を担当する本人から返信があった。メールでちょっとしたやりとりが続いたあと、私がその女性が勤める新聞社に入社することは叶わなかったこと、そして業界紙ではあるものの、春から新聞記者になることを伝えると、彼女から「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、会社には入ってみよ、ですよ」と返信があった。
私の母より一回り年上のその女性には、時々近況報告をした。新聞社を退職し、雑誌社で働き始める前に、帰省したついでに連絡したところ、飲みに行くことになった。新聞社が入居するビルの最上階にある居酒屋で、次々とすすめられる酒に酔いながら、「どうして馬には乗ってみよ、人には添うてみよの言葉を贈ってくれたんですか」と聞いた記憶がある。彼女は「当時のあなたは、業界紙であることに不満がありそうだったから。だけど、実際に入ってみたらそう悪いものでもなかったでしょう」とにっこりしていた。
彼女が一度私にチャンスをくれたことがあった。ミーティングルームで次の特集のためリサーチしていると、外部メールに通知が入った。メールには「うちの会社を受けてみませんか。そのつもりがあったら、履歴書と職務経歴書、これまでのキャリアがわかる書類を私宛に送ってください」と事務連絡のように淡々と書かれていた。心臓がバクバクして、アドレナリンが吹き出すのを感じた。今すぐにでも社長に辞表を持っていきたい気持ちを堪えて、「ありがとうございます、ぜひ受けさせてください」と返信した。
面接のため直属の上司に「祖母が骨折したので帰省したい」と見え見えの嘘をつき、あえなくバレ、ずっと憧れていた新聞社を受けることを白状し、大いに怒られた。そうして二度目の受験にこぎつけたものの、私はまたもチャンスをのがしてしまった。論説編集委員のお墨付きで面接したにも関わらずである。敗因はわかっている。受かりたい気持ちが優って、思ってもいないことを話したのである。熟練の記者に、私の表面的な言葉は見透かされていた。面接の数日後、私に機会をくれた彼女から、不採用の連絡が届いた。申し訳なさはあったけれど、その新聞社への未練は完全になくなっていた。
そうして社長から倒産を告げられる当日まで、私は雑誌社で仕事を続けた。そして現在は「馬人舎(うまひとしゃ)」の屋号で、フリーランスの編集者・ライターとして活動している。もちろんこの屋号は、あのときもらった言葉からとったものだ。
今週のお題「馬」