読むこと、書くことの身体性

思えば前の会社が潰れるまでほとんど紙媒体でしか文章を書いたことがなく、webに載せることがあったとしても紙用に書いた記事の転載だった。フリーランスになってからはそれが逆転して、私が書いたものが紙に印刷されることはほとんどなくなった。web媒体での仕事をもらったばかりの頃は、それこそ「カ、カニで2000文字書くんですか!?」って感じで、紙面という制限がない世界、細かな文字数の調整がない世界というのが新鮮で驚いた。web媒体と一口に言っても様々で、ある分野では「大して書くことがなくても文章が長ければ長いほどページの滞在時間が長くなり、紹介しているものの有り難みが増して購買につながる確率が高くなる」という。今では私もそのシキタリにならって長い文章が書けるようになった。新聞は一行10文字、雑誌は一行14文字ほどだったので話すように句点を打ってもそう鬱陶しくはならなかったのだけど、webは一行20文字以上であることが多く、そうすると私が紙でこれまで書いてきたような文章は一見句点だらけのようだ。例えば「クタニズムの連載では、全部で10話を書いたのだけど、テキストをデザインに流し込んだ後に読み返して見ると、句点の多さが気になって、一記事あたり20箇所くらいデザイナーさんに句点を消してもらうという作業が、何度もあった」。これがwebだと「クタニズムの連載では全部で10話を書いたのだけど、テキストをデザインに流し込んだ後に読み返して見ると句点の多さが気になって、一記事あたり20箇所くらいデザイナーさんに句点を消してもらうという作業が何度もあった」となる。ひるがえって。今ある仕事でやりとりをしている人から「(この記事)長いですね」と言われて、そこに深い意味はないのだろうけど、その言葉がすごく気になった。web媒体では長ければ長いほどありがたがられる記事がある一方で、「長すぎると読まれない」ことを懸念するメディアもある。私は読者に忖度して本来伝えるべき内容を無理に短くする必要はないと思うけれど、それでもどこかで「こんなに長い文章を書いた自分」に酔いしれているところがあったような気がしてドキっとした。本当にこの言葉は、この文章は必要なのだろうか。その人は記事を読むために一度プリントアウトして紙で読んでくれたと言っていた。文字数だいたい1万字、パソコンで見る限りは延々とスクロールし続けるだけだけど、プリントアウトすると15〜20ページほどになる。私はそれだけのボリュームを真剣に読むことができるんだろうか?ぎっしりと並んだ文字を多い、長いと感じないだろうか?ここまで文字を書き連ねただけの記事に、何かそれだけの内容が詰まっているのだろうか?振り返ればフリーランスになったばかりの頃は紙に書いていた名残で、たとえアウトプットがweb媒体だったとしても書いたものを一度プリントアウトして読み返す作業をしていた。最近はパソコンで書いてパソコンでチェックするということにすっかり慣れてしまって、自分が書いたものを紙で読むことがなくなっていた。「物理的に長い」。その感覚がweb媒体では感じにくいけれど紙媒体では分かりやすいというのは、web媒体で読むよりも紙媒体で読む方が「身体性がある」行為だからなのかも知れないと思う。読む行為、書く行為の身体性を取り戻したい。ただ書く、ただ読むとなっているから、文字数でしか情報を補えなくなっているような気がした。新聞も雑誌も「10文字で何を伝えるか」を悩む仕事で、その時の方が「何を伝えるか」を懸命に考えていた(昔勤めていた新聞社に「究極は漢字一文字で表せる」と言っている人がいて、今年の漢字かよって感じだったけど)。でもそれはメインの媒体が変わった今でも大切にしなきゃいけないことで、むしろ今こそ、そこに細心の注意を払って書かなきゃいけないんだと思う。なんだかんだで私は書くことが好きなので、こんなことばかり考えています。自戒として備忘録。