シガーロスのワールドツアー日本公演を観るため、約半年ぶりに一人で上京。一人で二日間東京にいる機会なんて滅多にないので、勢いに任せて大学の先生に連絡を取り、久しぶりに会ってお話したい旨を伝えたら5?年ぶりの再会が実現した。私にフェミニズムを教えてくれた先生。会わないこの数年間も、何かあるたびに「先生だったらどう思うのか」を度々考えてきた。東京駅で会い、近くのカフェで色々聞いて欲しかったことを勢いまかせに喋っていたら「なるほどな。きっといま、自分の軸を探している途中なんじゃない?」って言われてハッとした。考えてみれば、本当に恥ずかしいことなのだけど、私は自分の軸なんてものはとっくに見つけた気になっていて、先生にそう言われるまで自分にはもうすでに確固たる芯があると思い込んでいた。いろんな人のいろんな価値観や意見に触れてぶれまくっている自分の軸、あっちに振れてこっちに振れて、振り子のように常に揺れ動いているのだけど、だんだんとその振れ幅が小さくなっていって、揺るがぬ軸のようなものがいつかできれば。本を書いている先生。等身大で考えること、等身大の言葉で語ること。いちばん小さいものを見て、いちばん小さいものの視点で考えることについて話してくれた。先生とずっと話したかったのは近年のフェミニズムブームと「日本の」フェミニズムのこと(あえてカギ括弧で日本のと書いている)、それから地方のフェミニズムについてだった。本当に必要とする人には届かないフェミニズムというのは一体なんなのだろう。誰の何のためのフェミニズム。どうしても上から目線で大きな言葉で語られがちになっているのではないか、というのは何も誰かのことを指しているのではなくて自分だってそうだ。
一人旅行は楽しかった。特に夜。奮発してインターコンチに泊まったんだけど、一人で眠る夜はこんなに熟睡できるものかと驚いた。眠りが深くて充実していて、朝目が覚めたときには昨日の疲れが全て吹き飛んでいるような気がした。そして久しぶりの東京は面白かった。シガーロスのライブ終了後、久しぶりに会った友達と新橋までご飯を食べに行ったんだけど、23時の新橋はマスクをしている人の方が少なくて、みんな酔っ払っていて居酒屋は満席、もちろんマスクを外して飲食を楽しんでいる感じで、コロナ禍はもう終わったのかも知れないという気持ちになった。もちろんそんなことはなく、もはやパラレルワールド、自分がどの時代の何を生きているのかよくわからなくなる。帰りの新幹線、窓の外を眺めていたら校庭にウクライナ国旗を掲げている学校が目に入ってきた。瀧野川女子学園だった。そういえば地元で3年ぶりに開催された花火大会でも、ウクライナカラー(青と黄色)の花火が数発上がっていた。テレビ中継を通じて観た長岡花火でも戦争の集結を願いウクライナへの連帯を示す青と黄色の花火が打ち上げられていた。どこもかしこもウクライナ。連帯を示すことは悪いことではない。だけど、世の中が一気に敵と味方に分かれて、あらゆる場所である国の国旗を見かけるようになるのはなんか異様な感じがする。
東京に行くときは、ついでに森美術館を訪れることが多い。前回はChim↑Pomの「ハッピースプリング」、今回は「地球がまわる音を聴く」を観た。飯山由貴さんの、床がオレンジ、壁が紫色の展示スペースには映像作品が多くあり、用意された椅子に座ってじっくりと作品に見入っている女性が複数人いた。私を含め展示スペースには女性しかいなくて、あとからやってきた若い男女のカップルは、女性はじっくりと作品を眺めていたけれど、男性の方は彼女と分かれてすぐに違う場所へと行ってしまった。そのことがなんとなく印象に残り、来場者アンケートに記入して投函した。
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人生でシガーロスの生演奏を観るのは4回目だった。初めてのライブは2012年のサマーソニック、2回目は2016年のフジロック(グリーンステージ)、そして単独来日の2017年は大阪公演に参加した。私は今回のライブを心の底から楽しみにしていた。自分史上最高に遊びまくった2019年と妊娠・出産&パンデミックが重なった2020年の落差(と表現して良いのだろうか)が激しすぎて、それこそ出口が見えない長い長いトンネルに突入してしまったような、先行きの見えなさに息苦しくなっていたなかでの来日決定は、この漠然とした将来に対する不安に終止符を打ってくれる、一つの希望のように感じた。ライブが楽しみすぎて、私は日本公演の最終日である8/26の東京ガーデンシアターのチケットを取っていたのだけど、先の公演の感想をツイッターで検索してしまったのは失敗だった。何人かが「ツアー疲れでヨンシーの声がかすれていた」「加齢のためかヨンシーの声から繊細さが失われていた」といったことをつぶやいているのを見て、少なくともライブ前に他人の感想を見るのはやめようと思った。過去4回シガーロスのライブを観てきたけれど、私にとっては今回の公演が最も、ヨンシーの「声」が強烈に印象に残ったライブだった。一番最初の曲の歌い始めの声が自分の耳に届いた瞬間、いろんな感情が込み上げて涙が溢れて止まらなかった。今のヨンシーの声はCDで聴く何倍も奥深さがあって、力強くて、太くて、遠くまで届く声だった。かすれ声をネガティブに感じることは一切なく、それも表現の一つというか、人間であるヨンシーの当たり前の変化というように思えた。話は逸れるが私は人間のことを「劣化」と表現するのが嫌いで、いつか誰かから、染め物の人間国宝に認定されているある人が色は「褪せる」のではなく「移ろう」ものだと話したエピソードを聞き、人間も移ろうものなのだよなと思ったことがある。あれだけのキャパシティを誇る会場で幸運にも前から5列目の客席を引き当てたのだけど、会場が広いがためはっきりとヨンシーの顔や表情まで見ることができず、霧の中を目を凝らして探すような気持ちでライブを鑑賞していた。ステージの上で光に照らされたり消えたりするなかで唯一、ときに耳を塞いでしまうほど爆音で届くあの力強い声ヨンシーがそこにいることを実感させてくれた。ヨンシーは人間だったし、ライブは奇跡でもなんでもなくて、この地球の世界中がパンデミック禍のこの日本・東京で実現した限りない現実だった。「地球がまわる音を聴く」で「世界と一緒に回らなかった日」などの作品を手がけたアーティスト・ファン・デア・ウェルヴェの紹介文の一節に、「非日常性は日常の地続きにあり、ひいては、生きることは本来的に単純な繰り返しであり、それ自体がかけがえのない営為であるということ」という言葉があった。シガーロスの非日常的なライブを観たあと、私はなぜか清々しい気持ちで日常に引き戻され、自分も含め人間の営みが美しいもののように思えた。