日記

私はSigur ros(以下「シガロス」)の筋金入りのファンである。今年6月に彼らが8枚目となるアルバム「ÁTTA」(ÁTTA - Sigur Rós)をリリースしたのだが、そのときにファン界隈でちょっとだけ話題に?なっておりそのときに感じたことがようやく自分のなかで言葉になった。「ÁTTA」のジャケット写真には、彼らと同じアイスランド出身のアーティスト・Rúríの作品が採用されていた。1983年に制作しビデオに収めたというその作品(https://ruri.is/2011/09/26/rainbow/)は屋外に人工の虹を模したものを設置し、そして燃やすというもので、アルバムジャケットには「虹が燃えている」様子が使われている。①シガロスのボーカル・ヨンシーはゲイである②アルバムは9月に予定しているアナログ版のリリースに先駆け、プライドマンスである6月にデジタル版が発表された③アルバムにはLGBTQを象徴する虹(レインボーフラッグ)が用いられている④そのレインボーフラッグは「燃やされている」ということから、ツイッターではアルバム発表直後から「ゲイであるヨンシーがプライドマンスである6月にLGBTQを象徴するレインボーフラッグを燃やす作品をジャケットに起用したことの意味」とか「シガロスの政治的意図とは」といった声がぽつりぽつりと上がり始めた。誰かにとっては切実な問題だということはもちろん分かっているのだが、全ての虹や虹をモチーフとしたものがイコールLGBTQを象徴するものではないし、ヨンシーイコールゲイの人ではない。私が今後の人生で最も好きになるアーティストに出会ったのは高校生の頃で、彼らについて調べるうちにボーカルがゲイと知り、それと同時にゲイという言葉を知ったのだが、ヨンシーはヨンシーであり、誰かがヘテロセクシュアルだと知るのと同じように、ヨンシーがゲイだったとして、ヨンシーはゲイというそれ以上でもそれ以下でもなかった。ヨンシーはゲイだが、ヨンシーのアイデンティティイコールゲイではないはずだ(なかには異性愛アイデンティティにしているひともいるだろうが多くは性的マイノリティである人の場合、それがThey、彼や彼女のアイデンティティとして捉えられることが多いように感じる。それは本人の意思によるものではなく周りの環境や他者によってイメージづくられたあるいは強固にせざるを得なかったアイデンティティではないだろうか)。シガロスのファンを人生の半分以上続けている私にはシガロス(ヨンシー)が、そのような意図でRúríの作品「RAINBOW I」を採用しているようには思えなかった。アート作品や表現に触れてどのように解釈しようとその人の自由だがすべてにおいて「政治的意図を汲み取ろう」としてしまうのは一種の不幸ではないか。自分が感じる以前に政治的意図を汲み取ろうとしてしまうことに対して居心地の悪さを感じた。