愛想笑いしない

つながらなくても生きていける社会の方が生きやすいに決まってんじゃん。べつにつながってるのが悪いとかじゃなくて必要に応じてつながったり助け合ったり、したいひとはすればいいけど、人とつながる、それ自体がしんどいひとだって世の中にいないわけではなく、無理につながらなくたって自立して生きていける方がいいと思うそれだけなんだけど。なんか、つながりとか良いこと、もちろん良いこととは思うのだが、つながりが良いとされる一方で一人でいたいとか一人の方が楽だとかつながりから外れて生きていたいみたいなことを「つながり」と相反する考えとしてネガティブ的に捉えられてしまうそれがしんどい。そういえば5年以上前に岩波ブックレット「つながりを煽られる子どもたち」を読んだけどどういう内容だったか、たぶん先に書いたことと同じようなことが書かれていたのだろうな。つい先日、取材先に機嫌が悪い人がいて、機嫌が悪いっていうかただ忙しくて愛想を振り撒く余裕もないって感じだったんだけど、わたしは特に気にしていなかった(気付きもしなかった)のだが、彼女が去った後にオーナーさんから「すみません、彼女、海外経験が長くて愛想なくって。仕事が立て込んでてちょっと疲れてて」って言われて、無駄に愛想笑いしないのめちゃくちゃ良いなって思った。無意識とは思うが、愛想笑いしないことと海外経験が長いことが結び付けられているのだとしたら、どんなときでもお客さんにはニコニコ感じよくするのが日本人なのだろう。そんな話を夜夫にしたら、「たしかにななって店(ご飯屋さん)とか行くと店員に対して無駄にヘラヘラしてるよね」って言われてけっこうショックだった。ショックっていうか、愛想笑いしないのいいなって思ったのも自分がふだんからヘラヘラしてることを自覚しているからだったんだけど。ヘラヘラしてる方がトラブル回避できるしなんか印象よく思われそうだし、なんならめちゃくちゃへりくだったり余計(オーバー)に謝ることで相手に怒る隙を与えないみたいなさ、そういうことばかりこれまで処世術として身につけてしまった自分のことが情けなく悲しくなる。とはいえフリーランスなのでつながり(人脈)は大切だし円滑なコミュニケーションも大切なのだけど(べつに全人類が大嫌い憎んでいるとかそういうわけではなく、つながりのために人とつながったり、いい人だと思われるための努力をすることが苦手というか苦痛でたまらないのだ。また、そういったことが目の前やSNS空間で繰り広げられていることにただ疲れる)。なにかの記事で誰かのポートレートが真顔っていうかすんってした表情をしていて、すんっていうか凛とした、かな。ポートレート撮りまーす!笑顔お願いしまーす!とかもう古いっていうか、わたしもなんかもしポートレート必要になったときはいちばんわたしらしい表情で撮ってもらえたら嬉しい。べつに自分のこと特別だなんて思ってないよ、だけど普通の人間になりたい。