日記

週末家族で北陸最大級というイオンモールへ遊びに行った。私も夫も人が多かったり騒がしかったりする場所が苦手で、そもそもイオンに入居しているテナントは好みに合わないし、結婚してからふたりでイオンを訪れたのはおそらく片手で数えられる程度だ。最後にイオンへ行ったのは4、5年前。犬がヘルニアになったときに、主治医から「もしかしたら手術がうまくいかずにこれまでのように走り回れなくなるかもしれない」と宣告され、地の底に突き落とされたようなこの世の終わりみたいな気持ちで、当時唯一犬用バギーの取り扱いがあったイオンモール新小松まで車を走らせたときだった(術後、飼い主である私たちによる懸命なリハビリのおかげもあって、犬は健康な体を取り戻した)。イオンモールにはドラえもんハローキティアンパンマンなどが施された子ども用ショッピングカート「きゃらくるカート」があって、娘はこれが大のお気に入り。たまたま空いていたドラえもんのきゃらくるカートにのってショッピングモール内をぐるぐる周りウィンドーショッピングを楽しんだ(きゃらくるカートに乗っているときの娘は「走り屋」さながらで、たえまなくクラクションをプップッと鳴らし、ハンドルを右へ左へ勢いよく切り、謎のガラガラをひたすら回し、対向車や並走車を見つけたときにはドライバーの子どもに向かってガンを飛ばす)。夫と娘が鶏やウサギやフクロウなどが雑に集められて展示されている「ふれあい動物園」で遊んでいるあいだ、時間を潰すべくひとり館内をうろうろしていたときにふと、自分はジャスコ生まれイオン育ちで、いまも昔も同じようにイオンを訪れていることに気づいた(厳密に言えば「生まれ」ってこともないけど)。

 

幼い頃、母に連れられてよく家から車で20分ほどのところにあるジャスコへ遊びに行った。ゲームセンターでゲームをして、サイゼリヤでミラノ風ドリアを食べた。たまに他の家族も一緒に訪れてボーリングをして楽しんだ。中学校へ進学してからは、友だちと自転車で1時間以上かけてジャスコに通った。雨の日も雪の日も「キティサン」にルーズソックスで、友だちが漕ぐ自転車の後ろに乗って、ときには自分が漕いでジャスコに向かった。プリクラ交換が流行っていて、みんなジャスコに行くたびに10枚も20枚もプリクラを撮り、春も夏も秋も冬もサーティーワンアイスクリームを食べた。現在主流となっているイオンモールは私が高校生の頃に登場した。めちゃくちゃ豪華なビュッフェがあると同級生のあいだで話題になって、放課後、新潟駅を発着するシャトルバスに乗ってみんなでイオンモールに行った。イベントの打ち上げでイオンモールに行くこともあれば、クリスマスにイオンモールに行くこともあった気がする。病めるときも健やかなるときもイオンモール、都会の人から「これが地方民の娯楽なのだ」と言われれば、間違いでもないし好きなように言っておいてという感じかもしれない。大人になり、さまざまな飲食店で食事をするようになり多少なりとも舌が肥え、いろんな店を知って買い物もイオンではしなくなったけど、時は経ち、子どもが生まれて週末は育児につきっきりとなった結果、私はイオンに帰ってきた。

 

先日、作家の金原ひとみが「子供を産む前の自分」と邂逅(かいこう)するエッセイを朝日新聞に寄せていた。少し前に「邂逅」をテーマとした文学を募集する企画があったので、そのときに生まれたものだと思う。私はその文学賞に応募することはなかったのだが、そのテーマで書くとすれば、自らの育児を通じて自分を育てた両親と邂逅する話を書きたいと思っていた。子どもが生まれてから、しばらく縁が遠くなっていたもの、でもいつかは通ったことのある道を再び歩く、そんな機会が増えてきた。父は映画が好きで、一緒に住んでいた頃は休みになると毎週のように競馬場の近くにある寂れたTSUTAYAへ通った。競馬場近くの馬糞だかなんだかわからないけど独特な臭い、あれこそが私にとってTSUTAYAの記憶である。マクドナルドでハッピーセットを買ってもらって、みんなでお昼を食べた。何かの帰り道、よくコンビニへ寄ってお菓子を買った。私たちを驚かせたいと両親が企画したディズニーランド旅行。振り返れば今、私は親と同じようなことを娘にしている。決して20、30年前を懐かしむためにしているものではないはずなのに、両親が私たちにしてくれたことを追体験しているようだ。

 

今の時代、母親が育児について語るとき、それは喜びや楽しい思い出よりもつらいことや困りごと、抑圧についての話の方が多い。私たちは子どもが夜寝ないつらさに共感し、仕事や家庭との両立に悩み、父親が育児に参加できない環境に落胆し、国のやる気のない子育て支援に失望する。育児のつらさもこれまでに形成してきたアイデンティティを破壊されるような衝撃も勿論あったが、育児にまつわるすべてが悪いわけではない。一方で、昨日が100点で今日は0点だったから、平均すると50点だなんて思えるほど子育ては単純なものでもない。先週、子どもを保育園へ迎えに行った帰り道、後部座席に座る娘が運転席の私に向かって「先生と神社に行ったとき、きいろい葉っぱがひらひらって落ちてきたんだよ」と話してくれた。これだけで十分だと思ったが、その日の晩になかなか娘が寝なくて発狂しそうになるのも自分なのだった。イオンが嫌いなのもイオンは子連れにとってのリゾートだと思うのも自分。変化を受け入れ生きていく。

日記

あちこち出かけるのが好きだし仕事も一所懸命がんばっていたから妊娠した当初は周囲の人から「仕事人間だし子育てしながら家でゆっくりするとか無理でしょ」なんて言われたりしていたのだが、酷い悪阻でほぼ寝たきりの生活を丸一、二ヶ月送っていたとき、テレビの前で死んだように横たわり言葉どおり朝から晩までNHK BSを観ていた日々って今思い返すとそこまで悪くないっていうかむしろすごく良い時間で、あの時間があったから私は「やまと尼寺精進日記」や「行くぞ!最果て!秘境×鉄道」、「アフリカ縦断114日の旅」などを観て知らない世界に触れることができたし、これまでになかった休むとか仕事をしないとかそういう価値観、時間の過ごし方を知ることができたと思っている。寝て過ごすのは(具合が悪くない限り)楽しくて、できれば仕事をしないで四六時中テレビを観るなり本を読むなり犬の腹を撫でるなり匂いを嗅ぐなりしていたい。だけどみんなが「無理でしょ」って言っていたように、私自身、仕事も何もしないで家でのんびり過ごすことが好きだなんて思わなかったので結局のところ何事も経験してみないとわからないものなのだ。11月11、12日の一人旅から帰ってきてもう一週間以上経つのだが、お土産にもらってきた風邪がしぶとくいまだに治らない。先週も近所のクリニックへ行ったものの、漢方薬を4日間飲んでも症状が改善しないどころか咳が止まらなくなってきたので別の病院を受診すると、あなた先月も来てるじゃない。と前置きした上で「あきらかに風邪。こういうときはちゃんと栄養をとってしっかり寝る。3、4日きちんと休めば治るから」と言われた。休みましょうってみんな簡単に言うけれど、原稿制作を休んだ分締め切りも先延ばしになるわけじゃないんだし、バイトだってあるし、子どもだっているし、大人はなかなか休めないよねと書きながら気づいたが私の就労時間はせいぜい日に4、5時間である。で、家に帰ってきて結局休まないで原稿書いてたらひと段落したタイミングで夫が「ほら、休憩してないじゃん!休憩。そういうところだよ」と言うのでパソコンを閉じてリビングに映り犬と共に録画していた「ETV特集 五味太郎はいかが?」を観た。五味太郎ってどんな人かよく知らなかったけど保護者向けの講演で印象に残った言葉があったので引用する。「今の学校っていうのはさ、勉強つまんないわけよ。二年生は三年生になるために頑張ってるわけ。で、小学生ってのは中学生になるために頑張るわけよ。で中学生っていうのは高校生になって、大学に行って、就職してってそれに向かって頑張るわけよ。今は将来のためにやがてくるってことをね犠牲だと。この理論ってね、なんなのかなーってね。で、みんなほとんどは何割かは頭が洗脳されてるよね。だから今日がんばってるんだよね。だから頑張れって言葉がこれほど飛び交うって国なんだろうね。未来のためだから、将来のためだからってことをずーっと続けていると、実は今がないんだよな。今は将来のための犠牲なんだよな。将来よくなるために今頑張ってるんだよ。でも今はどうすんのって。そうすると今、今を生きているっているビジョンが本当に少なくなってくる。でね、ぼくはそこのところをなんか耐えきれないっていうか面白くないんで、今の作業が面白いんだよねっていうのをずっと続けてきたんだなあって気が逆にする。ガキが五味太郎読んでて気持ちいいのは彼らが今生きてる子なんだよ。で、子どもっていうのは何かというと幼いうちは特に今を生きているんだよね。将来のために今幼いところ頑張ってるんじゃないんだよ。それは大人の理論付けなんだよ。彼らは今日の今、今、今の連続が、明日の今になって明後日の今になっていくんだよね。ちょっと理屈っぽいけど今の連続なんだよね。でなんか日本の人って割とそういう意味でいうと、真面目っていうのを目標にしちゃったじゃないみんな。真面目に生きるってことを目標にしろっていうことを、ちゃんとみんな落ちちゃったんだよね。真面目に生きてる。この国はほんとに詐欺だよ。これ よく暴動が起きないなっていうのは暴動を起こさないぐらいに真面目な人が育ったんだからこれ成功なのかもしんないね、この国は。でも、ちょっと違うんだよね」。ちょっと休むつもりが録画していたテレビを観て文字まで起こしている。そういうところだよと、我ながら思う。

日記

石川・富山・福井の北陸三県がすっぽりとおさまる広大な面積を有する新潟県は東京に近い順に上越中越下越とエリア分けがされており、私の生まれ故郷であり県庁所在地でもある新潟市下越地方にあるのだが、一口に下越といっても新潟市を含め8の市町があるほどまあ広い。私の実家は平成19年の政令指定都市への移行以前も新潟市にあったが、万代島と呼ばれる新潟市中心部や新潟駅へ行くにも車で20、30分はかかる。どこへ行くにも移動、移動、移動。あくまで私の感覚だが、新潟県民は移動に慣れている。帰省をするたびに新潟市のはずれにあるワイナリー・カーブドッチへ遊びに行くのだが、カーブドッチまで車でだいたい1時間はかかる。どこへ行くにも遠いし車でアクセスするのが一般的なので、たった1時間程度の運転は苦にならない。翻って現在私が生活の拠点を置いている石川県金沢市。駅まで車で5分10分、自転車で街なかへ遊びにいけるような距離に住んでいると、たった片道15分のパン屋さんへ行くことさえ遠く感じてしまうことが少なくない。たとえば車で加賀温泉郷のひとつ山中温泉へ行くとなると、金沢市を出発地として、野々市市白山市小松市加賀市と5つの市をまたぐことになる。実家からカーブドッチへ行くのと変わらない距離だが、とても遠く感じる。自宅から半径15km圏内に何でも揃い、そのなかで生活するのはすごく楽。ラクなんだけど、ラクに慣れすぎてたかが片道1時間を「遠い」と感じてしまうような自分にはなりたくない。

旅の数日前、くまのプーさんの実写版と言われる映画「プーと大人になった僕」を観た。大人に乗ったクリストファーロビンと汽車に乗り、車窓の外を眺め、見えたものをひたすら呟くプー。「人」、「馬」、「人」、「人」、「家」。同じことをしてみたくて上越妙高駅から在来線で越後湯沢駅へ向かう道中、じっと窓の外を見た。田んぼ、工場、田んぼ、田んぼ、田んぼ、家家家家家・・・・・。新幹線に乗って東京へ行くとき、大宮あたりから窓の外に見えるマンションの数が一気に増えて、その家の数、家から連想される人間の数、人生の数に圧倒されていつも泣きそうになる。それは人間の数によるものだと思っていたけれど、今回、田んぼのなかに点在する家々を眺めながら同じように胸が締め付けられるような気持ちになった。みんなここで生きて、生活している。

一泊二日の一人旅から帰ってきて、しばらく休みたいと思った。なんだか身体の節々が痛いし、風邪も引いた。当たり前だけど、移動は疲れるのだ。片道4時間かけて重たい荷物を担いで寒波により急激に気温が下がった雪国へ行き、初冠雪を観測して、帰りはさらに重量の増えたリュックに肩を圧迫されながら行きと同じように4時間かけて金沢まで戻る。誰かと一緒の旅と比べて、話し相手もいないし、何かを味わって美味しいねって頬を緩めることもない(思えば今回は初めてとなる夕食付きの一人旅だった)。楽しいというよりもどこか修行のよう。目的地を目指し、到着し、いつもとは違う空気を吸って、何かを感じて翌日にはすぐ帰る。何かを感じたといっても大したものではなくて、疲れたとか、今度は夫を連れて来たいとかそんなようなものなのだけど、完全に一人の状態になったときに、自分が何を見たいか、何に心を動かすか、何を好きと思うか、自分はどうやって一日を過ごすのか、交通手段は何を選んで、どこで立ち止まり、何を諦め何を諦められないのかを確認するような旅であった。もうすぐ3歳になる可愛い娘や夫がいながら「自分の誕生日を一人で過ごしたい」と言うのは理解できない年長者も少なくないようで、誕生日はもとより、日常であっても「一人になりたい」「一人の時間が欲しい」という私を不思議に思う人もいる。だけど私には一人の時間が必要だし、一人の時間を持つことはネガティブなことではない。完全に一人のとき、私は孤独を感じない。家族以外にも大切なものがあるからこそ、家族や、家族との時間を大切にできるというのはあると思う。多少(体力的に)無理をしてもお金がかかっても、疲れたとしても、子どもを優先するでも家族を優先するでもない自分ありきの時間を過ごすことは、自分の心を守るために大切だと思っているから。

 

Mission: Impossible' Looks to Retain #1 Position Over Disney's 'Christopher  Robin' - Box Office Mojo

 

 

日記

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感覚過敏としてはコンタクトレンズよりもメガネのほうが調子が良くて、もともと2.0あった自慢の視力が働き始めると同時にどんどん悪くなってから(といってもそこまで悪くないんだけど)しばらくコンタクトを使っていたが次第にメガネがメインになり、周囲のひとたちのなかで私イコール丸ぶちメガネのイメージが定着している(みたい)。誕生日に夫からメガネをプレゼントしてもらうことが二度あって、最後にもらったのは2020年、30歳になる節目だったのだけど、金っていうと色気がないからゴールド?変わんないか、写真真ん中の素敵なこのメガネ。なんかこれ、おばあちゃんが付けてるような色味だけど若い私がかけるから逆にかわいい(?)みたいなところがあったようで、時は経ち、順調に年をとり、見た目もまた弾ける若さみたいなのがなくなってだんだん似合わなくなってきたっていうか輪郭のぼんやりした感じに拍車をかける形になってきたので、若く見られたいわけじゃないけれど、ちょっとシャキッとしたいなと思ってこれまででいちばん縁(ふち)の色が濃い、黒縁メガネ(写真上)を買ってきました〜(けっこう高くてけっこう悩んだ〜)!売り上げの前借り?これから得られる収入をあてに消費をするのってローン返すために働くみたいであんまり好きじゃないんだけど、怒涛の11、12月が始まりましたので、これをかけていま抱えている仕事すべて納品するまでがんばろうと思う。終

日記

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昨晩、むすめのリクエストでほぼはじめて「Lilo&Stitch」を観た。冒頭からリロの言動に妙な親近感というか、自分に似たようななにかを感じて、ネットで調べたらやっぱり同じことを書いているひとがいた。リロは自閉スペクトラム症ASD)もしくは自閉症(Autism)だって。「ファインディングニモ」に登場するドリーは明らかにADHDで、すぐ忘れちゃうことに苛立つニモの父・マリーンが「君は頭がおかしいのか?」(うろ覚え)というシーンはけっこうキツかったけど、リロに対する同年代の子どもたちの反応やドリーに厳しい態度を取ったマリーンを理解できなくもない。今年の夏くらいにASDADHD と診断されてから、ようやく自分の生きづらさのようなものに名前がついたことで納得いくような気持ちになったが、一方で、たとえばEテレのハートネット TVをみているときに発達障害者が障害者として紹介されていること、最近あった「全国障害者芸術・文化祭」のなかに発達障害者が含まれていることなどに対する違和感、言ってしまえばショックみたいなのがあって、これは私のなかにある障害者に対する偏見や差別なのかなんなのか。以前読んだ記事にあった「私たちは定型発達という障害を抱えている」という言葉、非定型発達者(エイティピカル)つまり発達障害者からすると、変わっているのは定型発達者(ニューロティピカル)であって、ニューロティピカルからすればエイティピカルは「障害を抱えて」いるが、逆にいえばエイティピカルからみたニューロティピカルも「テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣」したり「特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある」ような障害があるのだと。私が自分自身を障害者というのに抵抗があるのは(わざわざ表明する必要もないのだが)、障害(ディサビリティ)という言葉に含まれるネガティブなイメージのせいであり、本当は私が持っている特性はネガティブなものではなく、それが世の中の大多数であるニューロティピカルとは違ったものである、それだけなのにと思う(似たようなはなしは以前書いた「ふつうがくるしいふつうがくるしい - nov14b’s blogで)。不安が強く、感覚過敏と感受性が人よりも強いため、それらを和らげるために自立支援医療制度を使って服薬を始めたが、「自立支援」という言葉もまたこころに重りを沈められたような、なんとなく自分は負の要素を抱えているような気分になるのだった。結局、今年は「発達障害」という言葉に出会ったことによって、それに結構振り回されている感が否めない。

日記

黒部市美術館でキュンチョメの「魂の色は青」を観たあと、せっかくここまで来たのだからと糸魚川(新潟)まで足を伸ばそうと思ったが、富山で見る海も新潟で見る海も同じだろうと思い、最寄りの生地(いくじ)海岸まで車を走らせた。これまで何十往復もした新潟金沢間の海岸線、うまく言葉で書き表すことはできないが、ここは石川県、ここは富山の海、ここからは新潟というのは肌で分かる。田舎にある漁師町はどこも同じだろう、私の地元とそっくりで、平日の昼間はすごく静かだった。路上に乗り捨ててある車や軒先の洗濯物から、かろうじて人の存在を感じる。私も適当に車を停めて海岸沿いを歩いた。犬の散歩をしている人、階段に腰掛けて電話をしている人、美しい富山湾を写真におさめようとしている人。あまりに穏やかなので波打ち際を歩いたら、私の背丈と同じくらいの大きさがある魚の死体を見つけた。目がめちゃくちゃ綺麗だった。みみずよりもさらに太い寄生虫が腹のあたりに突き刺さっていた。灯台まで歩いて再びこの魚のもとへ戻ると、今度は沖に向かって流されていた。海に帰っていくように見えた。何度も何度も新潟に帰りたいと思ってきたけれど、本当は、どこに住んだって一緒だって知っている。みんな海でつながっている。

 

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