ふつうがくるしい

小学校中学年になったあたりから、だんだん周囲に話題を合わせることが難しくなっていった。流行の音楽とかアイドルとかそういうものにほとんど興味を持てなくて、とはいえ私が小学生だった頃といえばまだまだテレビには強い影響力があり、クラスの「みんな」が「エンタの神様」を観ているし、「ミュージックステーション」で好きなミュージシャンをチェックして翌日教室で盛り上がる、そんな感じだった。みんなが知っていることを知らないのはふつうじゃない。子どもながらに、適当に話を合わせて知ったかぶりをする癖がついていった。あるとき、同じクラスの男子がにやにやしながら「アゲハ蝶って曲、知ってる?」と聞いてきた。いつものように「うん知っているよ」と答えながら、なんとなく嫌な予感がした。すかさず彼は、「じゃあ、誰が歌っているかわかる?」と私のことを試すようにたずねてきた。普段知ったかぶりをしていることがバレていたのだ。最悪だった。それ以来、みんなが知っているもの、熱中しているものを知る努力をした。クラスで流行っていたからという理由で母におねだりして、全然好きでもないのに松浦亜弥のCD「♡桃色片想い♡」を買ってもらってみんなに自慢した。バカみたいだった。お笑いもわからなかった。みんなが面白いと思うポイントがちっともわからない。大学生時代、バラエティ番組が好きな3つくらい年上の男性と付き合っていた。好きというほどではなかったのかも知れない。ワイドショーのように、そこにあれば当たり前のように観て、みんなと同じように楽しむことができる、そんなふつうの人だった。ちなみに当時、私がハマっていたのは国会中継だった。国会中継に熱中しすぎて、家を出る時間が遅れてそのまま授業を休んでしまうこともあった。それほど好きだった。大学2年生のとき、人生で初めて実家以外の場所で年越しをした。大晦日、当時私が一人暮らしをしていた神奈川県の学生専用アパートで、彼氏は私の隣に座り、酒を飲みながら「絶対に笑ってはいけない」を大いに楽しんでいた。お笑い芸人の尻に向かって矢が放たれるたびに彼氏は嬉しそうに笑っていた。テレビがつまらない。彼氏もつまらない。こんなことならいつも通り新潟に帰って、家族水入らずでのんびり過ごせばよかったと心から後悔した。

 

松本潤主演の大河ドラマ「どうする家康」が話題だが、つい最近まで、わたしは徳川家康が何をした人なのかわからなかった。夫に聞いたところ、「江戸幕府を開いた人だよ」と教えてくれた。夫はまともに勉強してきた常識人で、いつも私の疑問に対して正確に答えてくれる。突然徳川家康の話を出したのは、つい先日ある知能テストを受けたとき偶然にも「江戸幕府を開いたのは誰ですか」という質問があり、胸を張って「徳川家康」と答えることができたからである。私は発達障害のひとつである自閉スペクトラム症ASD)の自覚があり、診断をつけるために知能テストを受けた。テストにはパズルのようにブロックを組み合わせるテストもあれば、記号を複写したり、聞き取った数字を計算したりするテストもあった。また、「『銀河鉄道の夜』の作者は誰ですか」、「北半球と南半球を分けるものは何でしょう」、「水は何度で沸騰しますか」といった質問もされた。自信を持って答えられるものもあったし、全くわからないものもあった。どうやら全て「一般常識」問題のようだった。どうやら私は一般的な知識が乏しく知識にかなり偏りがあるようで、みんなが当たり前のように知っていることを知らないし、興味の対象が人とズレているらしい。興味がないものが全くわからなくて、例えば芸能人の顔と名前が一生覚えられない。試しに一人、有名なタレントの名前を挙げて、知っているか質問してみてほしい。「ほら、ミスタードーナツのCMに出ているあの人だよ」と言われても、私は「10代の頃からNHKしか観ていないからテレビコマーシャルの話題が一切わからない」としか答えられないのだ。ところで、「一般常識」の「一般」とは一体、なんなのだろう。「一般」の対義語は「特殊」なのだそうだ。一般常識なんて、たかが受験くらいでしか役に立たない知識じゃないかと思ってしまう私は、だから第一志望の新聞社に入社することができなかったのだろうか。みんなが一般で私は特殊、みんなが普通で私は変わっている?本音を言えば、私にとって「江戸幕府を開いたのは徳川家康」だということをみんなが当たり前に知っていることの方が驚きだったし、高校生の歴史の授業で、ロシア大統領(当時)の名前が「メドベージェフ」だと、クラスの誰ひとり答えられなかったことの方が衝撃だった。徳川家康を知っていて、アメリカで活躍し、「最強の女性判事」と呼ばれたRBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)を知らない意味がわからない。私からしたら、不思議で変わっているのはみんなの方なのだ。

 

「変わってる」とか「不思議系」とか「天然」だと言われることが増えたのは、高校生、大学生くらいからだったと記憶している。その度に私は何を言われているのかよくわからなかった。心当たりがないし、それを直接私に言うことで、みんなが私に何を伝えたいのかがわからない。そんな長年の疑問にヒントを与えてくれたのが、IACK(金沢市)で見つけた写真集『THE EARTH IS ONLY A LITTLE DUST UNDER OUR FEET』(Bego Antón)だった。アイスランドで撮影された現実と空想があいまいな写真で構成されているその美しい装丁の本は、アイスランドの妖精や魔法に関する物語が差し込まれており、あるところには真っ白なページがあった。そこには目を凝らせば読めるような光沢のある白い文字で「YOU ONLY SEE WHAT YOU UNDERSTAND(あなたは、あなたが理解しているものしか見ていない)」、「WE CALL MAGIC TO THINGS WE CAN'T UNDERSTAND(わたしたちは、理解できないものを魔法と呼ぶ)」とあった。この言葉と初めて出会ったとき、私は胸がいっぱいになった。私を不思議とか変わっているとか言う人たちは、ただ単に自分の常識や価値観と照らし合わせて私のことを理解できないだけだし、既存のカテゴリーに当てはめることができないから「不思議」と言っているだけなのだと。

 

誰かのことを「ふつうじゃない」とか「変わっている」というとき、それは具体的にどのようなことを意味しているのだろう。最近読んだ本にはこうあった。「『他の人と違う』ことは本来は単なる事実であるが、それを『普通じゃない』とするとネガティブな評価になる」(「おとなの自閉スペクトラムメンタルヘルスケアガイド」)。一般的にふつうとは、みんなが同じものを知っていたり、同じことができたりする状態、つまりマジョリティの特性を指すように思う。例えばふつうの人が対人コミュニケーションにおいて空気を読んだり、相手の意図を汲み取ったり察したりすることができるとすれば、誰かのことを「ふつうじゃない」と言うとき、それは空気が読めなかったり、世間知らずだったりすることを指していることが多い。そして私のような「ふつうじゃない」人は、会話を合わせたり予定調和が苦手だったり、社会規範や暗黙の了解、会社のルールに従うのが苦手で、生きづらかったり悪目立ちしたり世渡りが下手だったりする。突拍子がない予測不可能な行動をしたり、常識が通用しなかったりする。ふつうの人はふつうじゃない私に、こういう場合はこうするのがふつうだよ、それはふつうじゃないからやめた方がいいよとアドバイスをしてくれる。そして、そのたびに私は、そのままの私であることに自信がなくなるのだ。

 

「ふとこの世で生きたことがない、という気がして彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった」(ハン・ガン『菜食主義者』)。この一節を読んだとき、息が詰まって泣きそうになった。私はこの世で生きたことがなかったのだ。いつもふつうにしようと心がけてきた。何気ない会話でどのように振る舞うのが正解なのかわからなかった。ふつうになりたいとずっと思っていた。自分に自信がなかった。自分がおかしいのだと思っていた。みんなと同じものに興味を持てない自分、空気が読めない自分、みんなが当たり前に理解できることを理解できない自分、疑問に思ってしまう自分、そんな自分はおかしいし、変わるべきだ、改善すべきだと思っていた。人から求められる「ふつう」を学習し、模範し、ふつうに擬態するなかで、いつしか自分がどんな人間なのか、なにが好きなのか、なにをしたいのかがわからなくなっていた。だけど最近になってようやくわかってきたような気がするのだ。気持ちを押し殺してルールに従ったり、我慢してみんなに合わせたり、空気を読んで行動することが本当に「ふつう」のことなのだろうかと。ふつうになれなくて悩む必要は決してなく、私は私のままで大丈夫なのだと。

 

(今年5月に初めて作ったワンシートzine「ふつうがくるしい」より全文掲載)

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