犬の目脂

初めて犬を家族に迎い入れたのは小学生の頃、父がある日突然、ビーグル犬を連れて帰ってきた。「事前に相談したらみんなに反対されちゃうと思って」と言っていた。父はこういう人だ。私は小学校から中学、高校へと進学し、だんだん家で過ごす時間が短くなって、犬の散歩をすることも面倒に感じるようになっていった。屋外で飼っていて洗ってあげる機会が少なかった犬は少し臭くて、思春期には手が汚れるのが嫌だと思って撫でることもしない時期があった。犬は歳をとって、だんだん目脂(めやに)が出るようになっていった。母は「目脂を取ってあげてね」と言っていたけれど、私は汚く感じて触ることができなかった。犬は長生きした。私が大学進学のために地元を離れて東京に行き、就職して金沢に住み、結婚するまでのあいだ生きていた。19歳まで生きた。最後の方は目も見えなくて、耳も聞こえなくなって、足ももたついていた。母は懸命に介護していた。もう長くなさそうだった。帰省するたびに弱っているように見えた。いつも呼吸をするのが苦しそうで、たくさん撫でてあげたいのだけど、すぐそばに迫った「死」を意識してしまい、かわいそうで近づくことができなかった。2月のある日、早朝に母から「犬が死んだよ」とラインがきて、それを夫に伝えたら、夫も一緒に涙を流してくれた。私たちが結婚した年にビーグル犬を飼い始めたのは、実家の犬がきっかけだった。いま一緒に暮らしている犬は6歳だけど涙目がちで、よく目脂が出る。私は気づいたときに手で拭い取ってやり、頭を撫でる。服に毛がつくのもお構いなしに抱きしめる。いま思うと前の犬が生きていた頃はまだ命というものを理解できていなくて、排泄だとか目脂だとか、そういうものを命と切り離して考えていた気がする。本当は切っても切り離せないものなのに。写真集「風をこぐ」を読んでいたら、昔飼っていた犬のことを思い出して、涙が止まらなかった。橋本貴雄さんは「フウ(犬)を見つめていたら」と書いていたけれど、そこには犬が見つめるものが写っていて、犬の記憶が現れていた。犬は世の中をよく見ていて、よく覚えている。そう思うと、死んだ犬は私のことをどう見ていただろう、果たして幸せだっただろうかと考えてしまって、また涙が出てきた。

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