当事者と非当事者

そういえば西加奈子っていま何しているのかしらと思い出し、調べたら新しい小説が出たばかりとのことで、読んでみた。新聞のインタビューで、この作品を書くにあたり「虐待や貧困、ハラスメントの当事者でない自分が書いていいのか」という葛藤があったことを明かしていて、読みながらわたしが抱いたモヤモヤの正体がそこにある気がした(西加奈子、5年ぶり長編小説 「葛藤し書き続ける」: 日本経済新聞)。貧困やハラスメント、虐待の原因が個人に起因するものではなく社会にあるとしたら、一見つながりがないように思える私自身も、実はどこかでそのシステムを支える何かに加担しているのではないか、つまり「当事者でない」と言い切れないのではないか、と私は常々思っている。虐待や貧困、ハラスメントの「当事者」を、被害を受ける側、加害する側に限定してしまうのはあまりに危険ではないか。この本に出てくる登場人物をハラスメントや貧困や暴力の「当事者」(被害者)たらしめている原因はなにも一つに絞れるものではなく、その大きな原因が社会にある場合に、「当事者」「非当事者」と線引きをすること自体が彼らをより一層苦しめ、直接被害を受けていない/直接加害をしていない私たちを問題から遠ざけてしまうのではないかと思う。話は少し逸れるが、私が東日本大震災でつらかったのは、自分が当事者になれないことだった。直接被災したかったわけではない。そのとき東京にいて、少なからずマンションは揺れ、物流ストップの影響を受け、電車も止まり、原発事故の恐怖に怯えた。何らかしらの被害を受けたにも関わらず、そしてリアルタイムで止まない報道を観続けて何らかしらのトラウマを受けたにも関わらず、そのとき被災地にいなかった私は、社会的に非当事者とみなされるためにつらさを表に出せないことだった。当事者として東日本大震災と向き合えなかったことだった。本当に私は東日本大震災の非当事者だったのだろうか。非当事者と当事者、とあえて分けて考えることによるメリットとはなんなのだろうか。長々と書いたけど、つまるところ、著者がインタビューで自身のことを「当事者ではない自分」と語っていた、そういう線の引き方をすることに心の中で冷めてしまったのだ。インタビュー読まなかったらまた受け取り方変わったかなあ。