「笑え、踊れ、遊べ」

そのあとはもうダメだ。まだ手伝いますよといってみたが、「みんなが食中毒になっちゃうからやめてください」ととめられた。そりゃそうだ。調理もできなければ、皿洗いすらできやしない。なんの役にもたちやしない。しょんぼりしながら、ぼーっとしていると、みるみるうちに食事ができあがっていく。ドラム缶みたいなバカでかい鍋に、みんなで切った野菜やら、モツやらが無造作にどさどさといれられていく。それで薪に火をともし、ジャンジャン煮込む。わたしはさむかったので、ずっと火にあたりながらタバコをふかしていた。そんなこんなで、まもなく食事はかんせい。活動家のひとが合図をすると、いっせいにみんながどんぶりもって、きれいにならんだ。わたしはちょっと遠慮していたのだが、ひとのよさそうなおじさんがやってきて、「兄ちゃん、はやくならびなよ」といってくれた。わたしが「いやいや、指をきっちゃって、なにもできなかったので」というと、おじさんは「ここはそういうやつが食っていいとこなんだぜ、ほら」といってどんぶりをくれた。ならんでいると、そのどんぶりに大もりの白米がもられ、そのうえにサラダがもられて、さいごにモツ煮込み汁がぶっかけられた。汁がこぼれるほどいれてくれた。うれしい、あつい、指がいたい。みんなで、いただきますといって食べはじめた。うまい、うますぎる。人生で一、二位をあらそうほどのうまさだ。サラダにかかったマヨネーズと、モツ煮込み汁がまざりあって絶妙のあじになっている。そして、ものすごくさむい日だったというのもあるのだろう。からだがいっきにあたたまっていくのをかんじた。エネルギーがしみわたっていく。よっぽど、しあわせな顔をしていたのだろう。さきほど声をかけてくれたおじさんがやってきて、「どうだい、あじは?」ときいてきた。「最高です」とこたえると、むこうも満面の笑みだ。そのあと、メシをかっくらいながら、おじさんとすこしはなした。おじさんは、「あのな、オレ、あのスカイツリーってのをつくってんだよ、すげえだろう」といっていた。ほかにも全国各地を転々として、いろいろな建物をつくっているらしい。まじですごい。わたしが「いやあ、ぼくなんてきょうみたいになんの役にもたたなくて」というと、「エッヘッヘ、いいんだよ、きてくれるだけで」と、ただそういって笑っていた。いいひとだ、ほんとうに。無用者の晩餐会。はたらかないで、たらふく食べたい。わたしはこのときから、いつもそうおもうようになっている。「無用者の晩餐会」

 

これが一九七〇年代前半くらいまでのことだ。このころから労働と消費の関係がおおきくかわってきた。労働と消費が一体化したのである。いまからおもうと、その後ずっとなのだが、おおくの国が不況になって、とにかく売れるものだけをつくらなくてはならなくなった。消費されるものだけをつくる。消費されるときにだけひとをやとう。これが非正規雇用だ。ロンドンによれば、これではたらきかたもかわって、労働者はいつでも消費者のようにふるまい、たのしいもの、個性あふれるものをつくらなくてはいけないといわれるようになった。消費としての労働だ。労働はショッピングであり、よろこびであり、人間性を発揮する行為であると。おそろしいのは、結果、大多数のひとが貧乏になったのに、それすらショッピングのように自分で好んでえらんだ結果だといわれるようになったことである。フリーターになるのも個性、ニートになるのも個性、ホームレスになるのも個性だ。そして、かれらは仕事をもつことを放棄したといわれ、世間から倫理的な非難にさらされる。なぜなら、それは消費を放棄することにひとしいからだ。仕事をもたない、もてないということは、自分で人間じゃない、市民じゃないといっているにひとしいのであり、反社会的な行為なのである。自己責任だ。とうぜん、国家はカネをださない。「貧乏になるのは、ショッピングをするのとおなじことだ」

 

さて、わたしは大学でアナキズムを研究してきた。とくに、大杉栄という日本のアナキストを研究している。大杉がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字どおりの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ。ひとによって、やりたいことというのはまちまちだとおもうが、たとえば、わたしだったら、好きなときに好きな本がよみたいとか、だれの目も気にせずに、好きなことをかきたいとかそういうおもいがある。でも、資本主義社会だとこういわれる。やりたいことをやりたければ、まずはカネをかせげ。やりたいことでカネをかせぐか、それができなければ、ほかの仕事でカネをかせいでこい。そうじゃなければ、生きていけないぞと。でも、これやりはじめると、すぐに初心をわすれてしまう。どんなに分泌が好きなひとでも、それを職業としてやるとなるとちょっとちがう。ほんとうは、文章をかいてみせあうにしても、こむずかしいことをいってみたり、わけのわからない表現をつかってみたり、仲間内でたのしんでいるくらいがいいのかもしれないが、それじゃ食っていけない。出版社からライターのバイトを請け負ったときとか、場合によっては文章をかくたのしさなんて、ぜんぶ捨てなきゃいけないときもあるだろう。ほかの仕事をしたっておなじことだ。だんだんと本をよむ時間なんてなくなって、もくもくと仕事をこなすだけになってしまう。かせぐためにはしかたないと、自分にいいきかせて。でも、おそろしいのはここからで、こうおもうようになってしまうことだ。自分の生計は自分でたてられなければいけない。かせげないやつはダメなやつだ。かせげないことはやってはいけない。カネ、カネ、カネ。かせぐことはよいことだ。気づけば、それはたらかざるもの、食うべからず。かせげもしないのに、やりたいことしかやろうとしないのはひとでなしだ、ろくでなしだと、落伍者のレッテルをはられてしまう。わたしたちは、やりたいことをやるのに、はじめから負い目をせおって生きることを強いられている。生の負債化だ。(略)でも、大正時代の女性たちは、ほんとうにすごい。豚を囲うとかいて家とよむのだ、それが人間らしさだというのであれば、人間じゃなくて豚のままでいい、火を放ってでもなにをしてでも逃げ出すのだ、なんじ真っ黒な大地の豚であれと、直球でいいはなつ。まわりの迷惑かえりみず、ほんきで生の負債をふりはらう。それこそ身も心もボロボロになったとしてもである。女性たちは、そうやってすこしずつ自由な生をかちとってきた。ぜんぶマネしようとか、そんなだいそれたことはいえないが、ほんのわずかでもいいからあやかりたい。笑え、踊れ、遊べ。はたらかないで、たらふく食べたい。きっと、大正時代の女性たちがやっていたことにくらべれば、ずっときらくでかんたんなことであるはずだ。ひとを好きになるんだっていい、好きな本をよむんだっていい、好きな音楽を聴くんだっていい。よく考えてみると、わたしたちのなかに、これがおもしろいとおもってわれをわすれ、なにかに夢中になってのめりこんだ経験のないひとなんているのだろうか。あとは、それがやましいことだとおもわなければいいだけのことだ。高等遊民、あたりまえ。そろそろ、消費の美徳とむすびついた労働倫理に終止符をうつときだ。「あとがき」

 

こんなにたくさん引用してもいいのだろうか問題。以上、すべて栗原康の「はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言」から引用。ちょっと前、仕事をしに石川県立図書館へ行ったときに、「生き方を考える」みたいなコーナーの目立つ場所にこの本が置かれていて、そういえばタバブックスの「仕事文脈」を購読していた頃に栗原康の文章を面白く読んだ記憶があり借りて読んだらとても良かった。県立図書館いい仕事してる。私が書くことが好きなのは、言葉が好きなのは、書くことが好きで、言葉が好きだからで、それ以上でもそれ以下でもない。それを仕事にしたいから一所懸命読んだり書いたりしているわけではない。このあとがきで書かれていることとまったく同じようなことで悩んだことがあって、もしも書く仕事以外でもっと楽に稼げて、空いた時間で自由に読んだり書いたりできるのならば、ライターなんて仕事、もう辞めてしまったほうがいいんじゃないかと思ったことがある。そんな話をたまたましていたら、私と同じように書くことが好きな人から「好きなことを仕事にできるなんて羨ましいけど」と言われて、そういうものなのか、誰でもできるわけではない仕事を大切にしなくてはとそのときは納得したのだけど、いまやっている仕事を胸を張って好きとは言い切れず、やはり仕事のための仕事になっている感覚は否めない。たまにしか会わない知人で、会うたびに「いまはどんな仕事をしているの?」と聞いてくるひとがいる。わたしに仕事があるかどうか気にかけてくれているのかもしれないけれど、仕事なんてどうでもいいじゃんとも思う。SNSでよく見かける、おもにフリーランスの人たちの、とりあえず顔が広い人とつながっておけばいつか仕事がもらえるかもみたいな惰性に惰性を重ねた関係性が見ていて耐えられない。批判は決してしない、お互いに褒め合うことで保たれるつながり。人と人とが関わるのに、なんで仕事を軸に損得を勘定に入れて付き合わなきゃいけないのだろう。話があって、感性があって、仲良くしたいと思ったらそれで十分なのではないか。人間関係にも巧妙に入りこむ資本主義社会。滅びろ。適度に働いてたらふく食べたい。納得いかないことはしたくない。「はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言」、中古本を探して買おう。3月10日のラジオ聴こう。

らじる on Twitter: "【#高橋源一郎の飛ぶ教室】 今夜もありがとうございました! / ★来週3/10(金) のセンセイは、政治学者の #栗原康 さんです。 \ 源一郎さんが、ずっと出演してほしいとリクエストしていた方! #はたらかないでたらふく食べたい #大杉栄伝 #永遠のアナキズム https://t.co/WHg17Yu4gF" / Twitter