日記

制作が立て込んでいるので昨日のうちから「明日は朝から外出して仕事するから」と夫に伝えていたら、今朝は私がセットした目覚ましよりも30分早く「そろそろ起きなよ」と起こされた。早起きしたついでに顔も洗わずパジャマの上にそのまま上着を一枚着て犬の散歩に出かける。一歩外に出ると、完全な冬の終わりを感じさせるような暖かさ。朝から良い天気で、日差しも心地良い。犬は近所の散歩だと盛り上がらないから、用を済ませると踵を返して早々と家に戻る。夫と自分のコーヒーを淹れて、四月の天気予報について話をしながら頭を起こし、娘が目を覚ましたタイミングで出発。長く暗い冬を過ごしたあとの青空というのは本当にありがたく感じるもので、自然と感謝の気持ちが芽生える。図書館へ向かって車を走らせていると、ふとレイキャビクの朝を思い出して、景色が重なって見えた。どこに住んでも同じというのは、絶望ではなく希望である。自慢できるほどたくさんの国を訪れたわけではないけれど、人並み程度には海外旅行をしてきた。アメリカは4回、中国、韓国、タイ、ベトナムマカオ、トルコ、トランジットで訪れたカタールに、最後に行ったアイスランド。日本以外の国を経験して戻ってくるたびに移住したいとしつこく言ったけれど、最近では、文化や街並みの差こそあれ、見える景色も含めて、結局どこに住んでも同じだと、人間の営みというのは本質的には変わらないのだと、みんな生きるために生きているのだと、そんなことを思うようになった。子どもが生まれるまでは夫のスキーの付き添いで新潟や福島、長野などの山奥を訪れる機会も少なくなかった。スキー場の近くで生活している人たちのなかには夏は農業、冬は民宿経営といったスタイルをしている人も少なくなく、また時間の流れ方がゆっくりしているように感じた。自然が豊かな場所に住みたい。開発とか文明みたいなものから離れていて、街の喧騒がなくて、すぐそばに自然を感じられるような場所。そう思ったこともある。だけどいま住んでいるところにも自然はたくさんあるのだ。「岩も木もみんな生きて心も名前もあるわ」とは私が幼いころから大好きな映画「ポカホンタス」の主題歌の一節だが、たとえ大自然ではなくてそれが街路樹であっても、公園のなかの草花であっても、それらの存在や息遣い、表情を見出すことはどれだけでもできる。すべては私次第で、私の態度や向きあい方次第で、日常の見え方はいくらでも変えることはできるのだ。だから、どこに住んでも同じである。どこに住んでも同じというのは、どこに住んでも自分の人生は変えられないとかそういう意味ではなくて、あなたの心持ち次第で景色の見え方はいくらでも変えられるということ。

カタールの朝(2012年)

モニュメントバレーの朝(2015年)

レイキャビクの朝(2018年)

ソウルの朝(2019年)