世界が不幸せでも、私は幸せになっていい

先日、去年と同じように、娘がこども園から七夕の短冊を持ち帰ってきた。「おうちで願い事を記入してきてください」とのことだった。丸一年前、娘の短冊にどんな願いを込めたのか覚えていないけれど、私のことだから「家族が健康でずっと仲良く」とかそんなことを書いたのだろう。今年は「ケニアでゾウさんに会いたい!」と書いた。二歳半になる娘はまだ、「願い事は?」と聞いてなにか答えるような年ではない。ケニアに行きたいのは私と夫だし、ゾウは娘も会えたら嬉しいだろうし、そんな感じ。こども園の玄関前に設置された笹の葉には、続々と園児たちの願い事が飾られていく。「アイドルになりたい」「ねえねとケンカしませんように」「アンパンマンに会えますように」など、子どもらしい願い事の数々。我が家のように子どもに変わって代筆しているのは3、4歳くらいまでか、なかにはあどけない文字で、本人が綴ったであろう願い事も吊るされている。近所の雑貨屋さんが、七夕のプレゼント応募キャンペーンというのを実施していた。買い物をするともらえる抽選券の半分にはプレゼント応募要項を、もう半分には願い事を書いて投函すると抽選でギフトが当たるというもので、私も買い物ついでに「世界が平和に」と記入して投函した。きのうふたたびその店を訪れてみると、応募者たちの願い事を連ねたものが天井から吊るされて飾られていた。ざっくりみてみると世界の平和を願うものが思っていたよりも多い。みんな自分の願いを書けばいいのにと思いつつ、私自身も世界の平和を願っている。テレビでお昼のニュースをみていたら、案の定、七夕にまつわるイベントを伝えるニュースがあった。金沢市内にある保育園の園児に、リポーターが「なんてお願い事したの?」とたずねる。「みんながかぜひきませんように」と園児が答えるのをみて、ふと、一時ネットで話題となっていたランドセルのCMを思い出した。ランドセルメーカー・セイバンが制作したドキュメンタリー風のCMは「子どもたちにランドセルを選んでもらい、その様子を保護者にモニタリングしてもらう」というもの(【セイバン公式】ランドセル選びドキュメンタリー篇 - YouTube)。子どもは「これがほしい」と言いながら、実は大人の顔色を見ながらランドセルを選んでいた。先月のことだ。空から降ってきたかのように、突然、「世界に不幸な人がいたとしてもわたしが幸せになっていい」と思った。これまでの私は遠い遠い国に暮らす顔も知らない誰かのことを思って泣いたり取り乱したり落ち込んだりするような人間だった。妊娠中、アマゾンの森林火災に酷く胸を痛めて失業手当のうち一万円を寄付し、アマゾンの森林火災のことを微塵も話題にしない知人に対して密かに腹を立てていたこともある。ロシアのウクライナ侵攻が始まってからというもの、なんとなく心が晴れない日々が続いていた。もう一年以上経つ。世界のどこかで貧しい人、迫害されている人、戦争に怯える人がいるのに自分は安全な場所で幸せに暮らしていて良いのだろうかという何もできないのに常に澱みのように罪悪感がまとわりついている感じ。いつも報道を見て心を大きく揺すぶられ精神が不安定になったり眠れなくなったりする。そんななか、ある日、ふと自分の人生が安定していて、幸せであることに気づいた。その日は休日で、夫がいて、娘がいて、犬がいて、外は静かで、私には身に迫る危険や私を脅かすものがなにもないことに気づいた。この幸せをないものにして、どこかの誰かのことを思って自分は幸せではない、世界中の全ての人が幸せになるまで自分は幸せになれないなんて思う必要がどこにあるだろうか。もちろん物価高や政治に対する怒りなどはある。困りごともあるしもっとよくしていきたいという思いもある。だけど、それとは別に、いまここにある幸せを享受しても、世界の誰かがたとえ不幸せだって、私は幸せでいてもいいのではないかと思った。だいいち、見ず知らずの人、異国に暮らすひとが「あなたが不幸せだから私も幸せになれない」なんて胸を痛めたり苦しんでいたらいい迷惑じゃない?好きなネイティブアメリカンの言葉に、「声をあげて平和を求めるだけではじゅうぶんではない。平和を勤め、平和に生き、平和のうちに暮らさねばならない。」というものがある。世界の幸せを望むのならば誰かの幸せを望むのと同じように、自分の幸せ、自分の周りの幸せを実現する必要があるのではないか。それは「自分だけ良ければそれでいい」とは全く別のことで、でも、自分の幸せを求められない人が、幸せに気づけない人が、誰かの幸せを願うなんて不自然なことだと思ったのだ。七夕に寄せて。みんな、短冊には自分の本当の願い事を書こう自分だけの幸せ願って。