ピアスホール

ふと存在を思い出して、右耳に一つ、左耳に二つあるピアスホールに久しぶりにピアスを通してみた。表側からはすんなり針(?)が通るのだけど、裏側から顔を出すときは少し思い切りが必要だった。ともあれ三つともピアスホールは健在だった。金属アレルギーのため指輪以外のアクセサリーをつけなくなって久しい。たぶんピアスをしたのも5年ぶりくらいで、今後5年はまた付けないだろうと思う。

 

我が家には入浴時用の本棚があり、というか洗面台にある収納のうち一つのスペースを本棚にしていて、今読んでいる本、近々読みたい本を優先的にそこに置いている。2018年に買ったまま読まずに眠っていた沢木耕太郎の「テロルの決算」。安倍の件があり、読むなら今なのではないかと「読まない本棚」から入浴時用の本棚に移動しておいたところ、私より先に夫が読み始めていた。

 

いつか読んだ、はてなブログの誰かの記事。著名な人のものではなかったと思う。内容もうろ覚えなのだけど、そこには「言葉を尽くす意義」が書かれていた。例えば「戦争反対」とか「暴力反対」とか。普遍的なメッセージではあるのだけど、それが故に、もうその言葉では誰かの言葉に響きにくくなっているようなメッセージ。それを「戦争反対」や「暴力反対」といったシンプルな言葉でなく、言葉を尽くして読ませ、考えさせ、心に訴えるのが文章の力だと、それこそ言葉をふんだんに使って伝えていた。

 

雑誌編集者時代、飲食店の取材記事を書くにあたって「おいしい」、「美味」、「旨い」といった言葉の使用は原則禁止されていた。決まりごととしてあったかどうかは覚えていない。暗黙の了解だったのかも知れない。こんなことを思い出したのは、軽々しく(と言っては書き手に申し訳ないが)「しあわせ」や「幸福」、「美しい」といった聞こえの良い言葉を文章に散りばめて「なんとなく心地の良い文章」を書く人、それを読んで「なんとなくいい気持ちになっている」人の存在が気になっているからなのだけど。こんな小言を言ってしまうのは、まだまだ私が小物だからなのかも知れない。

 

大学で私にフェミニズムを教えてくれた先生のことが大好きで、今後東京に行くときにどうしても会いたくて、思い切って久しぶりに連絡を取ってみた。大学在学中、先生はとにかく私のことを励ましてくれた。「田澤さん(旧姓)は可能性のかたまりだから」、「国連職員になったら?」。卒業して初めて、新聞記者時代に会ったときには「ずいぶん丸くなっちゃったね!」。フリーランスになったことを伝えると、「何か一つテーマを決めて、本を書いてみたらどうでしょうか」。そしてテーマの見つけ方や書き方をアドバイスしてくれた。私はまだテーマも見つけられていないし、書きたい気持ちがどこに向かうのかもわからないし、今後何かを書くのかも、書き続けるのかも分からない。だけど、だから、二週間後、先生に会っていろんな話をするのが楽しみ。