「疑いもまた何かの意味がある」

本心では、私は性格が悪いわけでも根暗なわけでもなくただ「まとも」なだけで、まともを取り繕っている人たちの方がよっぽど狂っているのだと思っているのに、少し気を抜くと、「世の中」の「一般的」な声に惑わされて、はやくまともになりたい、ふつうの人間になりたいと願ってしまう。そして、ああまたうっかり周囲の普通に流されてしまった、流されて、自分を責めてしまったと悔やむ。最近なんか落ち込んでいる。

 

「夫のちんぽが入らない」に続いて、こだまさんの「ずっと、おしまいの地」を読んでいる。今日、湯船に浸かりながら読んでいたところに「私はたまに学校で働くも大抵は無職で、一日じゅう猫と一緒だった」と書いてあり、「私も!」と声を上げたくなった直後に、「いや、向こうはベストセラー作家だぞ」と自分でツッコミを入れた。全然立場が同じじゃない。「いつも何をしているの」「普段どうやって過ごしているの」と聞かれて、正直に「何もしていないよ」「ほとんど仕事もしてない」と答えると、だいたい「えっ」って言われる。なんでもっと働かないの、そんなに稼がなくて大丈夫なの、仕事は入ってこないの、みたいな「えっ」。

 

仕事があれば仕事するけど、ないものはないし、そんなときにあくせくしたって仕方がない。という境地に辿り着くまで私だってずいぶん時間がかかったが、幸い、急いでいま以上に稼がないといけない状況にはなく(夫にはとても感謝している)、とにかく焦らないようにしている。もちろん、私はもっとお金を稼いだ方がいい。子どもの教育資金だって貯めなきゃいけないし、私の収入が増えれば夫のプレッシャーも少しは減るだろう。もう少し好きなものを好きなように買うことだってできるかも知れない。だけど、どうしても自分のペースを崩したくない。というか、崩せない。

 

忙しいとか仕事をたくさんしているのが当たり前で、暇とか仕事をしていない状態はおかしい。常に人間は、より多くの金を得るためにがむしゃらになって働くべきだ。よりよい労働条件を見つけたらそちらに移るのは当たり前だ。みたいな世の中の雰囲気、本当はそんなものないのかもしれないけれど、私は誰かからかけられる言葉にそういったものを感じてしまう。全力で争いたくなる。お金だけで仕事を考えたくない。興味があることだったらバイトだってしてみたいし、たとえ書く仕事だったとしてもつまらないことはやりたくない。適当に選んだ会社の会社員になんて絶対なりたくない。お金だけを目的として仕事をするんだったら文章を書く仕事なんて辞めたっていい。こだまさんは書いていた。「いい肉を食べても罪悪感がないくらい、いい仕事をしたい」。お前はいい肉食べる以前に保育料を稼ぐことが優先だろと言われればそこまでなのだが、私もいい仕事がしたい。欲を言えば、書く仕事でいい仕事がしたい。こんな31歳(もうすぐ32)でいいのだろうか。私だって自問しないわけではない。

 

録画していたNHK「問われる宗教と“カルト”」 の前編・後編を観終わった。かなり濃密な2時間のなかで、もっとも印象に残ったのが次の言葉だった。「どうしても既存の宗教は疑いないことがいい状態だというようなところに(人々を)導いてきたように私は思うんですけど、そうではなくて、信仰が深まっていくということは、やっぱり疑いが深まるということだと思うんですよ。深く疑うことができるということがとっても大事なことなんだって。人は疑うことの中でしか発見できない問いというものもあるし、疑いの中でこそ人とつながるってことがあるんだろうと思うんですよ。それが確信こそ良い状態だと、確信しなければだめなんだっていうところに、なにか宗教が線を引いてきたんじゃないかと。そうだとすると疑いなき状態が人間のゴールだというふうに思って当たり前だと思うんですね。でも宗教というのが本当に働くべきときというのは、疑いもまた何かの意味があるっていうことが、やっぱり宗教がいまもう一度語りたいっていうか、語っていただきたいなって感じは強くありますね」。

 

文脈は全く違うけれど、先に書いた「忙しいとか仕事をたくさんしているのが当たり前で、暇とか仕事をしていない状態はおかしい。常に人間は、より多くの金を得るためにがむしゃらになって働くべきだ」みたいなものを、人は一度は疑ってもいいと思う。お金だって宗教のようなものじゃないのか。「疑うことの中でしか発見できない問いというものもあるし、疑いの中でこそ人とつながるってことがある」。まともな人にはわからないかも知れないけれど、低収入にも気高さってあるんだよ。おまけで最近読んで面白かったnoteを貼っておきます。

 

働きたくないから生活保護を受けてみた。毎日が豊かになった。|相川計|note