「兄の終い」

私には蒸発したおじさんがいる。蒸発したのにいるっていうのも変な話だけど、わたしが中学生くらいの頃にいなくなったようだ。家族から具体的に何がどうなってと言う話を聞いたわけでもなく、なんとなく、いなくなったんだなと察した。わたしが人生で初めて結婚式に参列したのは、おじさんが結婚したときだった。写真にうつるわたしと妹は、子ども用のドレスをきておめかしをしてとてもかわいらしかった。花嫁さんのウエディングベールを持って歩く大役を任され、緊張しすぎてロボットのような歩きかたになっていたと笑われたこともよく覚えている。いま生きているのか分からないけれど、亡くなったと聞かないのは、生きているからなのかなと思う。誰にも聞けない。なんとなくタブーになっている存在。ニュースでホームレスが殺されたとかそういう事件を知ると、大変失礼な話だけど、真っ先に名前や年齢を確認してしまう。優しくて、気が弱いがために、逃げるしかなくなってしまったということはいつか聞いたことがある。村井理子さんの「家族」を読んだとき、わたしはお兄さんがじぶんによく似ているような気がした。でもこの「兄の終い」を読みながら、わたしはいなくなったおじさんのことを思い出した。上手く生きられないひとって、想像以上にたくさんいる。上手く生きられなくても、頼れる親族がいなくても、国や社会の援助によって困らずに、勝手に生きられる社会であってほしい。