忘れる前に

来年から赤ちゃんを保育園に預けることになるかもしれない。他所の子を見て「あんなに小さいうちから保育園に預けられて」なんて一ミリも思ったことはない。一緒にいる時間だけが問題ではない。だけど、私は出産前になんとなく3歳まで家庭保育をしてみたい、そういう経験も良いかもしれないと思って、気づいたらその考え方に執着していた。母乳育児と似たようなところがあると思っていて、子育てってなぜか自分を犠牲にすればするほど、子に愛を与えられるんじゃないかという妄想に縛られてしまうときがある。一方で育児は「ほどほど」とか「中間」とか「いいとこ取り」みたいなのが難しい。母乳もあげたいけど仕事で長時間外出もしたいからミルクもあげるとか。育児の合間に適度に働くとか。二つの選択肢のどちらかを選べずにいいとこ取りをしようとすると決まってうまくいかない。いつもふたつの選択肢はトレードオフの関係にあって、何かを諦めなくてはもう一方が上手くいかないようになっている気がする。いま読んでる本に「《恋愛》は想像力によって組み立てられる。その限りで「制度」的であるとは言えても、「本能」的であるとは言いにくい。」と書いてあって、育児は恋愛でもなければ想像力によって組み立てられているわけでもないと思うけど、親から子に対する愛は「制度」的であるとは言えても、「本能」的であるとは言いにくいのかもしれないと思った。私は無意識のうちに日本の子育て、日本の親子という価値観に染まっていて、その価値観をベースとした制度のなかで子育てをしている限り、自分の「本能」とは違う愛の注ぎ方を子にしているような気がした。ここから抜け出したい。この蜜月が終わるのかと思うと急に寂しくなって、わたしはこの一年、母親としてちゃんとできていたのだろうかとか、仕事をしないで家にいた方が良かったんじゃないのかとかいろんな思いが溢れてきた。赤ちゃんが夫と戯れあいながらキャッキャ言っている様子を見て、涙が出た。

 

時間を注いで心を砕いて最高のものが書けたと思っても、数時間後に読み返すと、こんなもののどこが良いのかと思うことがある。一人で仕事をするということは、自分の仕事を自分で疑って、どこまで妥協を減らしていけるかということだと思う。いま携わっている仕事の一つは、その妥協を限界まで減らしたいと思っていて、昨晩は一度作ったものを解体して再構築する作業をしていた。気づいたら朝になっていた。

 

先週末、ちょうど良い天気で、赤ちゃんと近所を散歩した。赤ちゃんは抱っこ紐のなかで眠ってしまったから家に戻って布団に寝かせるのも良いかと思ったけど、きもちがよかったから時間を気にせずに好きなように歩いたり立ち止まったり眺めたりしていた。途中でいきなり外の世界の見え方が変わって、聞こえてくる音も変わった。テレビでよくみる親ガモの後を追っていたら側溝に落ちたコガモ、よりは大きいけれど鴨界でいえば小学生みたいなサイズのコガモたちが川をぎこちなく漂い、その様子を親がもたちが見守り、川沿いのアパートの駐車場で猫が寝返りをして、カラスは一人遊びをしていた。ここのところ「解像度」という言葉を使うひとが増えている気がして、わたしはそういう言葉を使いたくなくなっちゃうタチなんだけど、じっとそこにいることで解像度が上がる、時間をかけないと見えない、聞こえないものは確かにあるなあと思った。

 

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