雑記(死期とか寿命とか)

寿命、と入力して気づいたんだけど、なかなか面白い言葉だ。寿と命で寿命(じゅみょう)。語源を調べてみたら仏教用語らしい。日本人は無宗教とかよく言うけれど、日常生活でフツーに仏教用語を使っていたりする。スピリチュアルを時にバカにしながらナチュラルスピをぶちかます。無意識のスピリチュアルって、そっちの方が危険な気がする。人は誰しもいつか死ぬのに、病気などの理由で死期が分かった途端に、その人の価値やその人が生み出すもの(作品)の価値が上がることってあると思うんだけど、それがよくわからない。例えば余命三年の宣告をされたフォトグラファーがいるが、私が把握する限り、彼が余命宣告をされる以前に、彼の名前をネットや雑誌で見かけることはほとんどなかったように感じる。メディア(または消費者)がどういう理由で彼を、彼の写真を評価しているのかがわからない。余命宣告をされたことが写真の価値を上げているのか、それとも、余命宣告をされたことにより、彼の写真は変わったのか。私にはわからない。誰か教えてほしい。こんなことを考えていたのは、さいきん話題の「無人島のふたり」を読んでいるからで、「著者が亡くなる」という結末によって成り立っている本、読者があらかじめ結末を知っていて、ある意味それによって結末以前のストーリーに価値が生まれるというのはなんだか不思議な感じというのだろうか、妙な感じがしているからだ。以前、新聞で「自転しながら公転する」の書評を読み、気になっていつか読みたいなあと思っているうちにしばらく経ち、そして私のタイムラインに訃報が流れてきて著者の存在を思い出した。私が好きな書き手や、出版業界の人たちが絶賛しているので気になって購入したものの、私は彼女のこれまでの本を読んだことがなく、よって彼女に対して特別な思い入れもなく、もしかしたらそういう書き方をしているかもなのだけど、すごく淡々と読んでいる。淡々。私は冷たい人間なのだろうか。訪問診療や訪問介護を受けたり、緩和ケアを受けたり、軽井沢に家があって東京にマンションがある(あった)山本文緒さんのことを「お金持ってるなあ」とか思いながら読んでいる。他の人の意見が気になってツイッターで書名を入力して検索してみるけれど、みんながみんな、命の尊さについて語っているから、かえって何も伝わってこない。みんながみんな、同じものを同じように褒めているというのは奇妙な現象だ。というか、「褒めたい」と思わない人はそもそもツイートなんてしないのかも知れない。知らない誰かの感想をいくつか読んでいると、人はいつか死ぬのに、自分だけは死なないと思っている人がたくさんいるように感じた。目の前にいる人だっていつ死ぬかわからないのに、自分だって明日死ぬかも知れないのに、なんで大切にできないんだろう。なんで死を意識して生きることが特別なのだろう、なぜ死を意識しないで生きられるんだろう。