友達

ともだち【友達】同等の相手として親しく交わっている人。友人。

(岩波国語辞典 第八版)

ちじん【知人】お互いに知っている人。知合い。「古いー」

(岩波国語辞典 第八版)

 

友達ってなに?とふたたび考えるようになった理由は川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」を読んだことがきっかけだった。はたして聖と冬子は友達同士なのだろうか、という疑問。小説のなかで出てくる彼女たち以外の登場人物と同じように、私にも聖が冬子を利用して、自分の都合がいいときにだけ話を聞いてもらったり(というか一方的に話して満足したり)、ときどき優越感に浸っていたりするように見えた。冬子が下着も含め聖から貰った服に全身、身を包んで三束さんとデートに行くシーンは冬子があまりに惨めで哀れでトラウマ級に虚しかったけど、最後、冬子の自宅で聖とついに腹を割って?というかお互いが本音をぶつかり合わせるところはとても良かった。大学一年生の春、友達(私は、今となっては数年に一度しか会わない、大学に進学していちばんはじめに仲良くなった彼女のことを自信を持ってそう呼ぶ)とすさまじい喧嘩をしたことを思い出した。世界が終わるんじゃないかというくらい出口の見えない衝突だったけど(それでも原因は覚えていないのだ)、夜通し泣いたりキレたり言い合ったりしたあと、当たり前に夜は明けて日は昇りそして私たちは学校をサボって近くのくら寿司に行ってオニオンサーモンとか大学芋とかをえんえんと食べながら食べ終わった皿を返却しながら喧嘩の振り返りをした。「ASDだから恋愛なんてものには無縁だと思っている。好きという言葉の根拠と理由を求めてしまう。ましてや理由や根拠を述べられたらそれに該当する全ての人を好きになるわけで自分である必要を感じなくなり好きという言葉を信用できなくなってしまう。言葉を交わさないなんてもってのほか。」去年、このツイートを見かけてからというもの、ずっと頭にこびりついて離れない。わたしはまだASD(をはじめ発達障害)の診断を受けていなくて、とはいえ完全にクロだと思うのだけど、これを読んで自分のなかでいろんな辻褄が合ったというか、言葉通り、胸に落ちる感じがした。もしかして私が「友だち」とか「好き」とか「愛」とかそういうものの「意味」がわからなくて言葉によるコミュニケーション(説明や表現)に異様にこだわったり、「言葉で説明できないもの」それこそ友だちとか好きとか愛みたいなものを信じられない、理解が難しくなってしまったりするのはASDゆえなのかもしれない。聖と冬子は友達同士なのだろうか。もし「すべて真夜中の恋人たち」に続編があるとして、彼女たちは友達になれるのだろうか。なんかたまに「あ、あなたたち友達だったんですか?」みたいなことを第三者から聞かれて、お互いに照れているのか恥ずかしいのか「あ、というか」「知り合いっていうか」「インスタでつながってて.....」みたいな感じで茶を濁すことがあるんだけど、そう、そんなことがあって人はいつ「友達」になるのかみたいなことを思ったのだった。小学生とか中学生特有の縄張り意識みたいに(いや高校生まで続いていたか)「私たち友達だよね!」とかわざわざ言わなくてもいいにしろ、一方では「付き合ってください」「はい」から始まる彼氏と彼女の関係みたいなのものもあるわけで、なかには「付き合ってください」「はい」のやりとりをしなくても「気づいたら付き合っていた」みたいな人たちもいると思うんだけど、でも漫画とか小説とか読んでいると、相手から好きって言われてないし付き合う約束もしてないし、でもたまに会って遊んでセックスもするみたいな状況で「私たちの関係ってなんなんだろう…」って悩む描写ってけっこうあるし、学生時代にも今でもそんなことで悩んでいる身近な知人はいなくもない。「セフレだから」って割り切る人もいるけど、この場合も二人の関係を「セックスフレンド」って名付けて(カテゴライズして)いて、この、相手が自分のことをどう思ってるか確かめたくなったり、関係に名前をつけたくなるのって何でなんだろうって思った。ちょっと前に話の流れで「あなたは友だちだから」って言ってくれた人がいて、相手は深く考えていないのだろうし、もっと言ったら何かを簡単に説明するために「友だち」という言葉を使っただけなのかもしれないけれど、それを言われたときにすごく嬉しくて、自分も深いこと考えずに「友だちだから」とか言えるようになりたいと思った。友だちってなに?とか考えている自分が正直すごく面倒くさい。友だちって「付き合う」みたいに双方の同意が必要なのかな。お互いがお互いのことを「同じレベルで」友だちと思っている必要は必ずしもなくて、片一方が相手のことを友達って思っていても全然変なことじゃないのに、「相手が自分のことを友だちと認識するまで友だち同士って言えない」みたいな、相手のコンセンサスを取らないと不安みたいなのってなんかヘンだなって思った。また、関連しているけど別の話でちょっと前に知り合いがインスタに「大人になると「友だち」「友だちじゃない」のほかに「知り合い」という謎ジャンルの付き合いが増えていくのだけれど、もっと知りたいのに「知り合い」という言葉に距離を感じてしまう前提があるせいでどうも自分らしさって出せない。「連絡先教えてください」だとか、「ごはん行きませんか」よりも素直に"友だちになりませんか?"と言えたら楽なのになぁ。」と書いていて(勝手に引用します)、「友だちになりませんか?」って言うのも一つの手だなあと思ったり。知り合い以外にもツイッターでのママ垢つながりとか、インスタ友だちとかいろいろあって、これは友だちをジャンル分けしたものなのだろうか、それとも友だち以前の状態なのだろうかとか。例えば私は「私たち友だちだよね」みたいなやりとりがあったらもう10年でも20年でも会わなくても友だちでいられる気がするんだけど、でも本当はそんなやりとりなくたって、相手のことを信じてというか相手がどう思っていようが、私が誰かのことを「友だち」と思っていいし、そんな勇気を持ってみたい。

 

追記(2023-4-12-22:02)。ブログの落とし所がわからなくなって「そんな勇気を持ってみたい」とか書いたがなんか違うような気がすると思いながら一日を過ごした。私が昔住んでいた家にはアップライトピアノがあって、幼い頃、たぶん3歳とか4歳あたりから高校2年生くらいになるまでずっとピアノを習い続けていたこともあり、私にとってピアノは友達だった。暇なときには好きな音楽を耳コピして弾いて、気持ちが塞いだりイライラしたときにはピアノで憂さ晴らしをしていた(そういうときにはたいてい、母や父に怒りをピアノにぶつけていることが何故かバレて注意されるのだった)。「友達」になれるのは何も人間に限らず、友達について考えたとき私はふとピアノの存在を思い出したし、この話題を夫に振ってみたところ、「俺にとっての友達はなな(私)かな」と言っていた。妻であり友。っていうか私は深いことを考えず、「ピアノが私のことをどう思っているか」なんてことも当たり前に勘定に入れずに「ピアノは友達」なんて言っていて、先に書いたことと話が合わなくなってくるけどこれはどうなんだろう。改めて「すべて真夜中の恋人たち」で印象に残った部分を読み返してみた。「わたしは、いま言葉にしたこの気持ちを、三束さんに知ってほしいのだろうか。知ってほしいのに、知ってもらうことができないから、言えないから、伝えることができないから、こんなにも苦しいのだろうか。でも、もし、すきだということを言ってしまうことができたとして、それで、わたしは三束さんに何を告げたことになるのだろう?すきです、わたしは三束さんがすきですと言って、それからどうしたらよいのだろう。そのさきに、いったい何があるのだろう。わたしと三束さんとのあいだに、いったい何が起こりえるのだろう」「三束さんは、わたしと寝たいと思ったことは、ありますか」冬子。「彼氏でもなく友達でもなくセフレでもないとしたら、何なの?」「単にすきってだけの人?」「相手はどうなの?相手はあなたのことをどう思ってるのよ?ちゃんときいたの?そこが大事じゃない」「まるきり全然、もうまったく寝たくもないって思ってるんだったらそりゃあ失礼したわよ。でもまあ、すきって生身の相手に言うくらいなんだから何とかなりたい気持ちはあるわけでしょ。そんなの当然じゃない。それはどうなの?」聖。好きって伝えたいだけ。ただ好き、それだけ。寝たいとか付き合いたいとかそういうのじゃない。冬子のそういうどっちつかずで曖昧な態度に聖は苛立っていたけど、わたしは「好きって伝えたいだけ」がわかる気がすると思いつつ、でも自分は関係に名前をつけたい側の人間なのかもしれない。なんだろう本当はこの先に自分のなかの答えみたいなものがあると思うのだけど、さっきようやく頭の中で言葉になりつつあって再びブログを編集しているのにやっぱり忘れてしまったというかまだまだぼんやりしていて書くことができない。本当に大好きな言葉に「WE CALL MAGIC TO THINGS WE CAN'T UNDERSTAND」というのがあって、人が理解できないもの(これは言語化できないもの、非常に感覚的なものと言い換えても良いと思う)を魔法と呼ぶように、友情とか愛とか恋とかそういう感情についても、そういう曖昧な言葉でしか言い表すことができない、一言で説明することができないから友情とか愛とか恋とかそういう言葉があるのかなとも思ったりした。人と人との関係なんてそれこそ人の数だけいろんな形があるのにそう簡単に名前なんてつけられない。

 

追記(2023-4-13-21:50)。ふたたび「すべて真夜中の恋人たち」のことを考えていたのだけど、はて、このタイトル、「恋人たち」というのは冬子と三束さんのことを指すのだろうかというめちゃくちゃ根本的な(?)疑問が湧き、でも冬子も三束さんも「お付き合いしましょう」「はい」みたいなやりとりしていないしなとか、最後の方には「好きです」「好きです」「好きです」みたいな発言もあったような気がするが、結局、三束さんという存在、冬子が三束さんに対して抱いていたイメージ自体が嘘だったしなあとか思ったり。と、ここで冬子が三束さんとの電話中に発した「三束さんは、わたしと寝たいと思ったことは、ありますか」という言葉に立ち戻る。聖理論(ひじりりろん)でいけば、たぶん好きですと伝えることに何の意味があるのだろうか、つまり寝たいってこと?付き合いたい(他の人と仲良くしないでほしい、自分だけのものにしたい)ってこと?ゆくゆくは結婚したいみたいな?結局あんたは相手に何を求めてんねん。みたいな感じなのだろうけど、冬子が三束さんに対して質問した内容は実はめちゃくちゃわかりやすい質問なのかも知れないというか次のアクションがわかりやすい?(はい→私もです→寝ましょうみたいな?)で、わたしは冬子と三束さんが「恋人たち」なのかどうかが判断つかなかったのだけど、これもまた、本の読み手によって「どうみても恋人同士でしょ」とか「いや、これは恋人未満」とかいろいろ意見が分かれるのかもなあと思った。一方で、いま金城一紀の「GO」を読んでいる(読書を再開した)んだけど、まだ小説の半分までも読み進んでいないが、私からすると杉原と桜井は完全に恋人同士に見える。お互いの「下の名前」も知らないのに。少なくとも小説のなかでは「好きだよ」「私もよ」みたいな言葉によるやりとりがされていないのだが(今のところ)私が二人を恋人同士と思うのはなんでなんだろうね。そして冬子と三束さんはそうでないのは何故なのだろう。