新潟

「あなたは新潟を出た方がいいと思うよ」。私にそう言ってくれたのは保健室の先生だった。家庭環境が終わってて、なんでなのかは分からないけどひたすらインターネットにキモいとか死ねとか私の悪口を書いているバカな同級生の男子がいて、担任はそんな私の不調に一ミリも気づかないアホで、そんなこんなで10年以上続けていたピアノの先生ともけっこう最悪な別れ方をしてしまい、何もかもが嫌で死にたくて消えたくて、高校二、三年の頃は学校をサボったり、なんとか登校しても授業中起きていられなくてずっと寝ていたり保健室で過ごしたりしていた。この頃はけっこう記憶があいまいで、両親が離婚したのは自分が何歳のときだったのかもよく分からないし、自分以外のこと、例えば両親の離婚後も一緒に過ごした妹や母が、どんな表情をしていて、どのように生活を送っていたのか、休日は何をして過ごしたのか、引っ越し先となった母の実家ではどのようにコミュニケーションを取っていたのか、一切と言い切れるほど何も覚えていない。自分のことで必死だったのだろうけど、きっと当時は3歳下の妹も、母だってつらかっただろう。本当に、自分のことしか考えられていなかったことを今となっては恥ずかしく思う。保健室の先生にそう言われる前からなんとなく大学に進学しようと思っていて、それは県内ではなくて県外だろうと、県外であれば東京だろうと漠然と考えていた。東京に(正確に言えば神奈川だが)引っ越すまさに当日、サプライズで駅のホームまで見送りに来てくれた仲の良い地元の友達もいた。大学に進学してからも、私を訪ねて遊びにきてくれる高校の同級生もいた。だけどわたしは新潟に、別れることになる家族や友人に、後ろ髪引かれることなく県外へ出た。家庭(家族)と故郷を混同して、もう新潟に帰りたくない、新潟には嫌な人がたくさんいるし、離れていた方が気が楽だと考えていたのだと思う。ふたたび新潟の魅力に気づき始めたのは社会人になってからのことで、実家のそばを流れる阿賀野川の大きさとか、夕焼けの美しさや夜の静けさ、街のシンボルにもなっている信濃川や河川敷の豊かな風景とか、新幹線の車窓や高速道路から眺められるどこまでも続く田園風景、そういうスケールの大きさ(新潟は北陸3県(石川、富山、福井)がすっぽり収まる面積を有している)に改めて惹かれるようになった。2015年、結婚の挨拶をするため初めて新潟を訪れた夫は、海沿いを走りながら「新潟は日本のサンフランシスコだ!」と感動していて(夫はカリフォルニア州に留学していた)、そのとき私はなんと大袈裟なと笑ったけれど、たしかにそうかも知れないとも思う。私は「外に出た」ことで、新潟の魅力を再発見したのだろうか?古本屋でなんとなく手に取った「Hemisphere」に掲載されていたツバメコーヒーの店主・田中さんの文章を読んだときに、強く共感した一方で、“生まれたまちを「母」のように捉える”という部分はよく分からなかったのだけど、改めて考えてみると、私がいま新潟に惹かれる理由は、私が新潟で生まれたからではないかと思うようになった。「ぼくがこのまちで生き続ける理由はこのまちで生まれたから。いろんな場所に住み(ノマド的なあり方を含めて)生きることはもちろん尊重したい。けれど、生まれたまちを「母」のように捉えることはありえると思っている。すぐれているから、とか、たのしいから、というようなメリットが多いから、ではない理由で、あるいはどこかから主体的に選ぶという行為ではない仕方で、なんとなくそのまま住み続ける、ということもまたありえる、とも。」。私は家族がつらくて県外に出たけど、ふたたび家族と向き合えるようになった。それと同時に、新潟、生まれ育った故郷を受け入れられるようになっていったのだと思う。私は、本当は家族、父や母、妹ともっと過ごしたかったのかも知れない。逃げるように離れてしまった新潟、それと同時に家族とも離ればなれになった。もう実家がないから、というと私たちを受け入れてくれたばあちゃんや死んだじいちゃんに怒られそうだけど、今は父や母、妹と一堂に会することができる「家」がなくて、「家」を想うとき、なんとなく切なくて寂しい気持ちになる。ずっと開くことができなかった自分が幼い頃のアルバムもようやく見られるようになった。私は家族に愛されていたし、それは何かが起きたあとでも、家族の形が変わってしまっても、過去自体が変わってしまうということではない。失ってしまったもの取り戻したいと思うもの、いろんな気持ちが込み上げてきて、無償に、新潟に帰りたくなる。