日記

今回の寒波により十分な積雪があったので市営スキー場がオープン。また、ここ最近気分が沈んで二進も三進も行かないのでとりあえず気分転換のため昼からスノーボードに出かけた。シーズン初滑りが滑り納めになったのはつい一年前のことだが、今シーズンはできれば何度か滑りたいところ。一年に一回、多くても二、三回しか滑らない私は免許を取って何年も経つペーパードライバーさながらだけど、それでも身体は感覚を覚えているし、年々わずかながら上達しているような気がする。「冬が寒くて本当に良かった」と歌ったのは藤原基央だが、私は雪が白くて本当に良かったと思う。見慣れた景色が白で覆われるだけでこれほど美しくなるのだ。私の家からスキー場まで車で20分ほどの距離しかないけれど、道中何度もはっとする景色に目を奪われた。もしも雪が真っ黒だったら、ただでさえ寒くて憂鬱な冬は、闇のように恐ろしいものになっていただろう。車を走らせていると、田畑をすっぽり隠した雪の上に点の連なりからなる線をいくつも見かける。野うさぎの足跡だ。鳥の足跡を見かけることもある。私は動物たちの足跡を見るのが大好きだ。雪が積もると、普段は直接目にすることがない動物たちの存在を、たとえそこに彼らの姿がなくてもたしかに感じることができる。一年ぶりのスノーボードは楽しかった。10本も滑らなかったけど体も温まった。ただ、昨晩寝る前に飲んだ薬のせいかなんとなくずっと眠たかった。昨日保育園へお迎えに行ったときに、図書コーナーで娘から「これよんで」と「かみなり」(岩崎書店)という一冊を差し出された。娘を膝にのせ、かみなりの成り立ちやいかにして落雷するかを写真で丁寧に伝えるこの絵本を読み聞かせているとき、ふと娘の方に目をやると、暗闇でピカっと光りながら地上に落ちる雷を見て、目を丸くして驚いていた。娘はまだまだ3歳で、私にとっては常識だったり当然のことだったりしても、一つひとつが驚きや発見で、時には恐怖だったり喜びだったりする。私にとっての当たり前は、娘にとっての当たり前ではない。そんな改めて言うまでもないようなことを実感し、一緒にどんどん学んで、新しい発見をしたり感じたりしたいと思った。

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日記

北陸に寒波到来。頭のおかしい新卒社会人だった頃、自分の担当先のトップにアポを取り、初めて上司(支局長)に取材同行をお願いしたことがある。福井県の山間にあるその金融機関に朝一番で到着するには早朝6時台の特急電車に乗る必要があり、そのためには5時台に起きて支度をして最寄駅へ向かわなくてはならなかったのだが、支局長からの電話で目覚めたときにはすでに7時をまわっていた。始業は8時半だったにも関わらず7時半には続々と社員が揃いはじめ、7時50分に出社しようものならお局さんから「遅いわね」とイヤミを言われるような職場だったが、一度も寝坊や遅刻をしたことはなかった。あろうことか社会人初の遅刻が、よりによって支局長に同行を依頼した取材で、さらにアポイント先がどんな交通機関を使っても決して帳尻を合わせることができない福井県とは。軽いパニックになった私は、まずは上司に謝るのが最優先のはずなのに「電車が遅延して、私だけ遅く着くことにしておいてください」と上司にメールを入れた。担当先に寝坊したことがバレてはいけないと思ったのだ。そもそも私も上司も同じ金沢を出発するはずなのに、私が乗る電車だけ遅延することなどありえないだろう。言い訳もめちゃくちゃだし、言動もめちゃくちゃだった。頭のおかしい新卒社会人に愛想をつかせた上司はその後、私からの着信を一切拒否。私はどうやって福井にある担当先に到着してどのように謝罪したのかほとんど覚えていないのだが、担当先の専務(うろおぼえ)が私と上司をおいしい醤油カツ丼の店に誘ってくれて、共に昼食をとったことだけ記憶している。時は経ち、頭のおかしい新卒社会人は普通の聞き分けの良い社会人になり、転職し、失業し、今に至る。以前求人サイトの企画でインタビューをしたメーカーの製造ライン責任者が「納期に追われているときはしんどいっすね」と話していたのが印象に残っている。私のようなライターに限らずどの業界でも納期というのはおそらくしんどいもので、納期が増えれば増えるほど重圧が大きくなる。去年を振り返ると夏頃が一番忙しくて、雑誌やらウェブやらいくつかの締め切りを抱えて発狂しそうになっていたのだが、ちょうど心療内科の予約が入っていたので主治医に相談したところ「締め切りなんて絶対じゃないのだから、間に合わせるのが難しければ先方と交渉してずらしてもらうとかできるでしょう」と言われた。その場では納得したものの、締め切りや納期というものは、自分にとって一つひとつが大切な相手との約束という意識が強く、簡単に動かしたり破ったりするのは言うほど簡単ではない。年末年始とゆっくり休んだせいか、年明けもぼんやりしていたら、今月制作している雑誌の特集扉の撮影をすっかり忘れていたことについ先日気づいた。全部で5件取材するうち、既に4件の取材が終わっている。残る1件で扉を撮影するしかない。どうして忘れていたんだろう。でもギリギリ気づいてよかった。世の中ギリギリ気づくようになってるし、ギリギリ間に合うようになってる。失敗しても挽回できるし忘れていたってなんとかなる。そんなことわかっているのだが、無いことに越したことはないし焦ったり慌てたりすることはなるべく無い方が精神衛生上は良い。去年目薬を無くして、いつか出てくるだろうと思って新しいものを買わずにいたら、先日しばらく使っていなかったカバンの中から出てきた。大学生の頃にそこそこ気に入って毎日つけていた腕時計があったのだけど、ある日気づいたら無くなっていた。自分のなかで腕時計をどこかに忘れてくるというのは考えられなくて、そうであれば家のなかのどこかにあるはずなのだけど、見つからないからそれ以来一度も腕時計をつけていない。そろそろ新しい腕時計が欲しい。

日記

元旦の能登半島地震発生以来、地震に詳しい専門家たちが能登半島西部や新潟・佐渡沖の断層で地震が発生しやすくなる変化が起きていることについて警鐘を鳴らしている。私の実家は防波堤を超える高さの津波が発生したら即終了ってくらい海のそばにあり、どれくらい近いかというと玄関を出てから徒歩30秒で海に着くほどで、津波ハザードマップを確認するまでもなく超危険地域だと思っていたのだが、改めて新潟市が公表しているハザードマップ(浸水想定図)を確認してみると「3.0〜5.0メートル未満」の津波浸水が想定されるエリアに属しており、わかっちゃいたけれど重い現実を突きつけられた感じがした。その土地に生まれ育った人たちが、いつ来るのかもわからない自然災害に備えて故郷を捨てることが簡単にできるだろうか。いま82、3歳のばあちゃんは地元から離れたらすぐに生きがいを失ってボケるだろうなとか災害が怖いから引っ越したいけど二の足を踏んでいるお母さんのこととかいろいろ想像した昨晩。東日本大震災から今に至るまでのたった10数年のあいだに熊本地震北海道胆振東部地震能登半島地震が起きている。不動のように思える大地さえも揺れるし災害は起きる。家は壊れる。技術の力で、絶対に津波に流されない家は建てられるだろうか。この狭い狭い日本で、絶対に災害に遭うことのない場所はあるのだろうか。みんなで都市部に住めば怖くないのだろうか。本当にそうなのだろうか。本当にそれが災害に強い国づくりなのだろうか。リスクを極端に避けて生活することではなく、壊れてもまたやり直せること、また同じ場所で一からやっていこうと思える仕組みを作ってこその強さなんじゃないのかという自分なりの結論に至って日付が変わる前に眠りに落ちたが、寝る前にこんなことを考えていたからか、4つも夢を見るくらい睡眠は浅かった。ちなみに一つは自宅マンションから鷺と鷹の喧嘩を眺めていたら桃をくわえたカラスが部屋のなかに迷い込んでくる夢。もう一つはリビングに大きな大きな八の字型のプールを置いて娘と水遊びを楽しんでいたら傍から水が溢れ出してマンションが水浸しになる夢。それに知らない誰かがデートを楽しむ様子を第三者としてただ傍観する夢と、あともう一つ何かを見た。

 

夕飯を食べ終えたあと、暇つぶしがてら「コンビニ行こうか?車と歩き、どっちがいい?」と娘に聞くと「あるいていきたい!」と元気よく返事がかえってきた。外は雪が降っていないし、そこまで寒くない。18時を過ぎたばかりとはいえ、外は真っ暗だ。暖かい格好をして二人で手をつなぎ近所のコンビニまでお散歩していると、娘が「ママ、マーマー!」と私を見上げる。「どうしたの?」とたずねると「おさんぽたのしい。いっしょにおさんぽいってくれてありがと」と言われて、言葉に詰まった。ときどき、娘の言葉やまなざしがまっすぐすぎて受け止めきれないことがある。娘が発する言葉はあまりにも嘘偽りがなく、私の心にストレートに刺さってくる。道すがら、娘は何度か足を止めて夜空を眺めては「ママ、ほら月だよ」「やったねえ」と楽しそうにしていた。コンビニで切らしたばかりの食器用洗剤と、娘が選んだドラえもんの棒突きキャンディを買い、来たときと同じように手を繋いで帰る。会話に花を咲かせながら自転車を走らせる高校生や仕事終わりのサラリーマンとすれ違った。育児のため、最近ではすっかり見なくなった風景だった。外を歩くときにスマホを触らないのも久しぶりだった。私はもっと世界を見たほうがいいと思った。遠くの世界じゃなくて、身の周りの世界。夜だけど外は安全で、学生たちが楽しそうに下校していて、3歳になったばかりの娘はコンビニまで行って帰ってくることができるくらいたくさん歩けるようになっていた。雲がかった月はぼんやりしていたけどきれいだった。

2023-2024

約2週間の長期休み。事前に本や雑誌を数冊買い、好きなだけ読んだり書いたりするぞと意気込んでいたものの、結局、実家帰省中に唯一読むことができたのは祖母の付き添いで訪れた、近所のスーパーで買った週刊文春正月特別号だけだった。休みに入る前、たまにバイト終わりに訪れるカフェ「one one otta」のさやかさんが言っていた。「だって休みっていったって子どもの面倒見なきゃじゃん、だったら働いていても変わらないかなって」。母親に「ゆっくりと」「自分だけの時間を過ごす」休みはない。さやかさんは12月31日まで営業すると話していた。夫が後から合流するまでの一週間、久しぶりに娘とたくさんの時間を過ごした。新潟に帰るたびに訪れている水族館では、娘は魚に一切興味がないので、イルカとペンギンを確認すると早々にお土産コーナーに向かっていた。金沢(北陸)にはないロイヤルホストで一緒におやつを食べた。脱ぐときに裏返ったズボンやタイツを手先を器用に使って元に戻したり、児童センターにあった「ひもとおし」のおもちゃで上手に遊んだり、園に預けているばかりでは気付けない成長がいくつも見られた。言葉もずいぶん発達していた。おでかけをして帰宅した際、「おてて綺麗にしてこようか」と声をかけたら、すぐさま「汚れてないから洗わない」と返ってきたのには笑った。少しずつ、着実に大きくなっている。大晦日は例年どおり、おばさん家族と東京で暮らす妹も集まって、わいわい楽しく過ごした。詳細は割愛するけどなかなかいろんな背景、特性を持つメンバーが集まっている我が家族、わいわいというよりもむしろ騒がしい、慌ただしいといった方がしっくりくる夕食だったけど、カオスななかでもみんなが笑っていて、それがすごく嬉しかった。来年も再来年も、こんな大晦日を迎えたいと初めて思った。ちなみに別の日に会ったお父さんも元気そうだった。家族とは同じ家に住んでいることを指すのではない。家族とは苗字が同じことでもない。家族を構成するメンバーが解散したり離れたりしてまた別の家族を持ったとしても、互いを気にかけたり思い合ったりできればそれで十分だと思う。今年も家族みんな元気で。2歳の娘も含めて紅白歌合戦を最後まで見届け夜更かしした翌日は、10時過ぎに目が覚めた。ばあちゃんお手製の具沢山の雑煮を味わい、のんびり支度をして、昼過ぎに私、夫、娘の三人で車で約1時間のところにある不動尊へ向かう。お寺なんだけど私の父が気に入っていて、何度も連れられた経験から定番になっている場所。おみくじは「吉」という良くも悪くもない感じだったが、そこに書かれていた言葉が気に入った。「古きをすてゝ新きにつくがよい あまり一つの物にとらわれて役にも立たぬことを思ってはだめです 元気を出して捨てるべきは捨て進む所へ進め」。今年一年、この言葉を一つの指針にしていきたいと思う。お参りのあとに立ち寄ったイオンモールで娘と共に遊んでいたところ、地震があった。最初は被害の全容がわからなかったのだが、スマホを確認すると父から「逃げろ」と短いラインが届いており、津波警報が発令されていることを知る。私の実家は海まで徒歩1分海抜0メートルのところにあるので、しばらくイオンで時間を潰し、夜に帰った。その日は余震や津波が不安で夜中までなかなか寝付けず、デエビゴを1錠飲んで夫に「何かあったら叩き起こしてほしい」と伝えて強制的に意識をシャットダウンして就寝。次の日、目が覚めたときに、いつも通り朝を迎えられたことが本当に嬉しかった。1月2日のこと。娘の誕生日は次の日の3日だけど、その日金沢へ戻る予定にしていたので、一日前倒しで誕生日パーティーを行った。日中に妹と娘と三人でトイザらスへ行き、「好きなもの好きなだけ買おう!」と娘のお年玉を原資におもちゃをふたつ、バスボール(1個500円と高価)を3つ購入。東京でバリバリ働く妹は、ゲームセンターで数千円を投じて娘の気が済むまでクレーンゲームで遊ばせてあげるというまさに理想のおばさんという振る舞いをしていて格好よかった。夜、ケーキを用意してさあお祝いをしようというタイミングで、火に包まれて激しく燃え盛る飛行機の映像が飛び込んでくる。釘付けになる大人たち。お祝いムードを台無しにしてはいけないとテレビを消して気を取り直したものの、地震に驚き怖い思いをした翌日に、またも大人たちが暗い表情を見せてしまうことになりちょっと申し訳ない気持ちになった。その後、夫が「お風呂に入ろう、どれがいい?」とバスボールを選ぶよう聞くと「全部入れる」と威勢よく答えた娘。1500円相当のバスボールを一度に使うことなんてそうそうないから、きっと楽しめたであろう。2011年にあった東日本大震災以降、毎年3月11日には主要全国紙を買って震災関連の特集すべてに目を通し、テレビでは特番をチェックし、泣いて悲しんで数日間落ち込むというのを何年間も続けてきた。数年前の春、いつものように新聞を買ってきて読みながら涙を流していると、夫から「自ら悲しくなるようなことをしなくてもいい」と言われてハッとしたことがある。当事者ではない自分が胸を痛めるなんて被災した人たちに申し訳ないという気持ちと、当事者ではないからこそ唯一できることは関心を持ち続けること、忘れないことだと思う勝手な使命感で心のなかがめちゃくちゃになっていたのだ。震災から10年を機に、新聞を買うことはやめた。捨てられないままになっていた溜まり溜まった新聞も捨てた。自分の人生を大切にするときがやってきたのだ。振り返れば、2023年は自分の心と向き合う一年だった。これまでの人生は自分の心や体になかなか関心が向かず、遠くの世界や他人のことばかり考え、動き、日常をおそろかにしてきた感が否めない。子を持ったいま、健康でいること、いつも通りの日常を送ることはとても大切で、また自分が心を病んでは元も子もないという意識から自分のメンタルヘルスをこれまで以上に大切にするようになった。直接被害を受けていなくても、ニュースから、周囲の言葉から、止まない余震から、不安になったり落ち着かなくなったりすることはおかしなことではない。今の私は自分の心を守ることと、自分や家族の日常を守ることで精一杯だ。被災していないことを後ろめたく思う必要はない。いろんな言葉が飛び交い、いろんな人のいろんな正義感に押しつぶされそうになるときは、一度情報から離れてもいい。できるときに支援をすればいい。無理にシェアしなくてもいい。表立って発信しなくても、余裕があるときに、心の中で思いを寄せるだけで十分だ。あなたが日常を送ったり笑顔で過ごしたりしているのは、全く悪いことではないし、誰かを傷つけたりしない。あなたの日常だって被災した人たちの日常と同じくらい大切なはずだ。他人の言葉を浴び続けて自分の心のペースを見失ってしまわないように。ここに書いたのは、10年前、どうすることもできずに悲しんでいた自分に送りたかった言葉。

日記

冬休みに突入。金沢に一人残してきた夫は私と娘が帰省した当日早々に「娘ちゃんロス」とこぼしていたが、私は四六時中娘と一緒におり、更にくっついてばかりいるので二人の境界線が溶けてなくなりそう。口には出さずとも旅の疲れが溜まっていたらしい娘、今日は水族館に行くことを提案してみたけれど家でゆっくりしたかったようで、終日暖かい部屋に引きこもってテレビを観ながらホットカーペットの上でごろごろして過ごした。昼、小腹が空いて居間へ行き、ありもので適当に肉うどんを作ると、部屋が寒すぎて(ばあちゃんは節約の鬼なので極力暖房を付けない)どんぶりからもくもくと白い湯気が立った。天井に向かって勢いよく立ち昇る湯気を見つめる娘の、魔法を目の当たりにしたかのような嬉しそうな表情を見て、ささやかだけど素敵な人生初の経験だと思った。

 

母が「来年も早く新潟に帰ってこれたら、三人で温泉旅館に一泊しようよ」と言い出した。私とお母さんと娘の三人。まだ今年の年末も迎えていないのにと思ったが、母の提案に、そういう年の瀬もいいなと想像して楽しみになる。つい先日、友達がインスタグラムのストーリーズに「来年も再来年もバスケする!」と書いていて、なぜかすごく感動した。こんなことを改めて書くのもなんだけど、人生において特にこれといった目標ややりたいことがない。何年後にはこんな自分になっていたいとか、こんなことを成し遂げたいとか、そういうものがほとんどない。だからあまり未来のことを現実として考えることができない。特にここ一、二年はネガティブな情報に触れ続けた結果、来年どころか半年後の未来も信じられないみたいな状態に陥ってしまっていたのだけど(また持ち前の強い衝動性もあり、来年のことなんて誰にもわからないからやりたいと思ったら今やりたい、どうせ同じことをするなら来週じゃなくて今日行きたいみたいな場当たり的な行動があまりにも多い)、こうやって近い将来の予定を立てたり楽しみを作ったりすることが、生きる上での支えになるのだと染み入るようにわかった。遠くのことを見ようとするばかりに目の前のことを見落とさないようにしたい。

日記

夕食のあと、娘とディズニープラスで「ポカホンタス」を観ていた。「ポカホンタス」は私にとってディズニーのなかで1、2位を争う作品。少し前に勧めてみたところ、冒頭の荒波航海のシーンで「こわい、やめる」とリタイアしたきりだったが、今日おもむろに「ポカホンタス観る」とつぶやき、そのまま最後まで観終えることができた。娘と共にぼんやりとエンドロールを眺めていたら、最後に「1995」という文字が現れた。1995年公開かあと思いながら、そういえば私が幼い頃に繰り返し観た「アラジン」も1990年代公開だったことを思い出す。大好きな「ノートルダムの鐘」は1996年、「ヘラクレス」は1997年に公開されている。平成2年、1990年に生まれた私は、10歳までのあいだに親からディズニーの新作映画のビデオを与えられ、それらを観て育ったのだろう。

 

私も娘も、朝が弱い。毎朝7時、7時半、7時45分、8時と小刻みに夫が起こしてくれるが、なかなか起きられない。先日「俺だって毎朝毎朝大変なんだよ」と寝起きが悪い私たちへの不満を夫が吐き出し、目覚まし時計を買おうという話になった。目覚まし時計といえば、子どもの頃に実家にあったミッキーマウスの時計を思い出す。指定した時間になると、ミッキーマウスマーチのメロディを背景に、ミッキーが「グッモーニン、起きる時間だよ!今日もわくわく、楽しい一日が待ってるよ〜!」とハイテンションで歌い出す。強烈な目覚まし時計だった。しかし私の父は、言葉通り四六時中働き泥のように眠っていた父は、耳元でミッキーマウスが高らかに歌っても起きなかった。見かねて母が怒鳴っても、私が蹴っても、起きられなかった。時は経ち、夫と目覚まし時計の話になり、あのミッキーマウスの目覚まし時計が欲しいと思った。私にとっての目覚まし時計は、ミッキーマウスのそれだった。「ミッキー 目覚まし時計」のキーワードで調べてみると、見覚えのある画像が何件もヒットした。なかにはプレミアがついているものもある。中古市場で出品されている商品の説明文には「東京ディズニーランド開業当初に販売されていた商品のようです」と書かれていた。東京ディズニーランドは、両親が20代だった頃に開業した。あの目覚まし時計は、父と母の思い出の品だったんだ。

 

夢とか魔法とか、愛とか勇気とか、そういうものをなんとなく胡散臭く感じるようになって距離を置いていたディズニーと、娘が生まれてこんな形で再び会うとは思わなかった。そして、ディズニーに親しんだ過去を振り返るうちに両親の思い出に行き着くだなんて思ってもみなかった。

The Sky Is Painted Gray Today

12月18日(月)

たまには「日記」以外のタイトルも。今年一年頑張ったし一刻も早く締め切り地獄から解放されたくてせっせと原稿を書いた先月。12月に突入した途端締め切りから解放されたが頑張りすぎた反動か全てにおいてやる気が出ず、今になってもやる気が出ず、というか体調がずっと優れなくどんよりとした北陸の空のような気分の晴れない日々を過ごしている。たぶんこれは先月頑張ったからとかじゃなくて今年一年頑張った反動。人と会いたい、喋りたいと思うことがある。多かれ少なかれ人には会っているし誰かともそれなりに話しているはずなのに、時々無性に人と会いたい喋りたいと思うとき、私は誰と何を話したいのだろう。このあいだ夫と些細なことがきっかけで喧嘩したのだけど、口論のさなかに「自分の自信のなさを俺にぶつけないでくれ」と言われ、喧嘩しているから「確かに」とか賛同するようなことを言いたくなくて聞き流したものの心の中ではけっこう納得した。ちなみにやる気が出なくてなんもしてませんみたいなことを書いているけれど文字起こしという大切でヘビーな仕事が実は残っている。締め切りに余裕があるのでやる気のなさを口実に来年に回しているが、どうもやり残した仕事があるというのは今年の仕事を納めた気がせず、すっきりしない。人に会いたい、喋りたい。

youtu.be

 

12月19日(火)

昨日、ブログを書いたあとあまりにやる気がなさすぎて映画館へ行ってディズニーの新作「Wish」を観た。今日は図書館で粛々と文字起こし。夕方、娘を迎えに行ったら車に乗ったとたん「お腹すいた」と泣き出し、家に着くやいなやイングリッシュマフィンとバナナを爆食い。その後、夕食のために用意していた娘の大好物であるハヤシライスも完食した。私は娘が残したイングリッシュマフィン半分を夕飯の代わりにした。

 

12月20日(水)

家で粛々と文字起こししていたら、夫が「昼飯作るのもめんどくさいしラム食べに行こう」という。先月、原稿地獄脱出のお祝いに一人で食べた「ニュー狸」のラムステーキがとても美味しくて夫に自慢したのを覚えており、「忘年会ということで」と久しぶりに二人でランチに出かけた。家に帰ってくると、夫は部屋着に着替えてこたつに直行。「今日は仕事ゆっくりなの」と私。「もう今年はやる気がないんだよね、明日も明後日も雪のため休みにしたい」と夫。我が家に年末の雰囲気が漂っている。

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