日記

もっとささやかなこと。日記が三行で終わる日だってあってもいいと思うのに書き始めるとどうしても1,000字は書いてしまうし、でも1,000字はひとつのエッセイとするにはとても短いように感じる。何かのサービス、フォーマットを使い続けることによる影響というのは過小評価できないもので、たとえばツイートを繰り返すうちに、ひとつの「つぶやき」がだいたい140字におさまるように自然となってしまう。最近たまに関東で地震がある。千葉の「スロースリップ」もそうだけど、今日の緊急地震警報があったときにはついに首都直下型がきたか、といっしゅん身構えた。春に家族でディズニーランドに行く予定がある。半年前から予約して、毎晩むすめと情報誌を見ながら楽しみにしているディズニーランドの旅。お願いだから少なくともこの旅行を終えるまでは何事もあってほしくないと神頼みするとき自分はどこまでいっても自分本位だなと思う。今日はなしを聞いた人が「自分はエンドユーザーの顔を知らないけれど」と話していた。このあいだ仕事のやりがいについてのブログを書いたばかりである(日記 - nov14b’s blog)。「どんな人の手に渡るかわからないけれど、だからといって適当にやったらぜったいに線に現れる。だから一つひとつを同じだけの熱量をかけて取り組む。作品を愛する。(作り手である)自分は、自分が作った作品を販売する人に見えないバトンを渡している。自分の情熱が販売員に伝わり、またその販売員が同じだけの情熱をかけて消費者につないでくれる。もしも自分自身が生半可なものを作ったら、売る人の気持ちも中途半端なものになるだろう」と。消費者の顔は見えない。自分が手がけたものを手にした人の反応を直接知ることはできない。だけど、自分にはどれだけの情熱を持って作品と向き合ったかという事実が残る。「自分はやりきった」と実感できること。その事実が自分に自信を持たせてくれる。次の創作への意欲につながる。昨晩、ディズニー映画「シュガーラッシュオンライン」を観た。前作もそうだったけど、娘にとっては内容を理解するのに難しく、いつも途中で「ママ、ほかの観よう」と言われてなかなか最後まで観ることができずにいた。ヴァネロペがどんな人生を選ぶのか気になっていた。クライマックスは、想像していた結末とは違った。まだ受け入れきれずにいて、でもなんであの選択が受け入れられないのだろうと自問する。自分の理想とする世界、見てみたい世界とはどんなものだろうと考えると同時に、逆に、現実(リアル)とは何なのだろうという疑問。どうやら今日も1,000字で終わる。

 

日記

生クリーム386円、クリームチーズ494円、バター(食塩不使用)386円、レモン果汁が195円。上白糖と薄力粉は家にあるものを使うからゼロ円として、材料費計1,461円。オーブンレンジの電気代は面倒なので勘定に入れないとする。出来上がったベイクドチーズケーキ(直径18cm)を6等分すると、一切れあたり243円の計算。実は「もしかして切らしていたかもしれない」と不安になって上白糖と薄力粉も買ったから会計は1800円くらいだったけど、そうなると一切れあたり300円になってシャトレーゼ不二家で買うのと変わらない値段になってしまう。そんなことを考えながらお菓子づくりはできない。そもそも「買うより安く済ます」ためにお菓子を作るわけではない。暇つぶしにケーキでも作ろうと思い立ち、小雨が降るなか近所のスーパーまで歩いていく。道すがら公園で雨に濡れる木々の様子を観察する。スーパーでクリームチーズを探すとフィラデルフィアがなくて雪印のものしかないことに気が付く。ついでに夕飯の買い物を済ます。家に帰ってきて娘を誘うと「パパととしょかんいってくる」というので一人で作り始める。ベイクドチーズケーキを作るのは簡単だ。材料を順番に加えて混ぜて、オーブンを余熱して、180度で40分間焼く、ただそれだけ。焼成のあいだ犬と昼寝をして、焼き上がりを告げるアラーム音で目を覚す。ベイクドチーズケーキはしっかり冷やすと美味しいから、まずは粗熱を逃すあいだ犬の散歩に出かける。家に帰ってきて、少し冷めたケーキを冷蔵庫に入れる。それから夕食後まで冷やしておく。ここまでがお菓子作りで、それはいくらかかったかどうかという話ではない。食後にみんなで食べたチーズケーキはおいしかった。夫がチーズケーキを味わいながら「うん、おいしい」と言葉を漏らした。それは人気のパティスリーの高級ケーキを食べたときの「おいしい」とはまた別の「おいしい」だった思う。「でも、それと同じ赤とグレーの縞模様の靴下が、祖母が私のために編んでくれた贈り物だったとしたらどうだろう?何もかもが変わってくる。贈り物は、それからずっと続く関係を生む。私はお礼の手紙を書くだろう。靴下を大切にするだろうし、もし私が気遣いのできる孫ならば、祖母がやって来るときには、たとえその靴下が気に入っていなくてもその靴下を履くだろう。そして祖母の誕生日にはもちろんお返しの贈り物をする。学者であり作家であるルイス・ハイドはこう言っているー「贈り物と商品の基本的な違いは、贈り物は二者の間に気持ちのつながりを作る、ということだ」」(「植物と叡智の守り人」)商品ではなく贈り物としてのケーキ。娘はチーズケーキを少し食べたあと、昨日買ってきたドーナツが残っているのを思い出してそちらを食べていた。少し酸味が強かったから、今度は既製品のレモンシロップではなくフレッシュレモンを使いたい。

 

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日記

今日の蕎麦屋バイトは「キャバクラで14万使ったのにこれしかもらえねかったよ、おねえちゃんあげるわ」と言ってキャバクラ嬢の顔写真がプリントされたチロルチョコ(3個入り)をくれる人にはじまり、トイレを詰まらせる人、ミリタリージャケットの胸ポケットに歯ブラシを直で入れている人などなかなかユニークなお客さんが訪れたものの総じて平和だった。キャバクラの相場がわからずツケ払いのニュースを観て無駄に知識をつけた私は「14万」と聞いて思わず「それしか使わなかったんですか」と突っ込みそうになったけど、一緒に出勤していたベテランさんに「14万使ってもらったのがこれだったとか…」と伝えると「一人でそんなに使ったんや」とリアクションしていたので高額ということがわかった。昨日ツイッターでやりとり(といっても一往復だけど)した同業者の方が「人によろこばれる仕事」と言っていて、その言葉が胸に引っかかった。お互い何も言わなかったけど考えていることは同じだったように感じる。飲食業をしている人に話を聞くと、多くの人が「お客さんの反応がすぐ見られるのがうれしい」と言う。「お客さんの喜ぶ顔が見られるのがやりがい」なのだと。ひるがえって自分の仕事はというと、なかなか「受け手」の反応がわかりづらい仕事だと思う。これは新聞のときにも雑誌のときにも感じていたことで、フリーになってからも変わらない。私はスターを目指していない。ライターであっても編集者であっても徹底して裏方であるべし、というのが自分の美学である。一方で人に褒められたい、喜ばれたいという思いがないわけではない。それでたまに鬱々とした気持ちになる。一緒にするのは申し訳ないような気もするけれど、わたしはこれを校正者の大西寿男さんシンドロームと勝手に呼んでいる(「プロフェッショナル仕事の流儀」を見たときにいろいろと察するものがあった)。形にしたいものがある。なんでそんなに執着しているのだろうとも思う。喜ばれたいでも褒められたいでもなくて、私がこれを書かなきゃいけないのだ、世に出さなくてはいけないのだという思い。振り返れば私は10代の頃からずっと「書きたい」気持ちだけを原動力に生きてきた。そして今、なぜフリーランスにこだわって仕事をしているかといえば、やっぱり、こうやって仕事以外の自分のやりたい気持ちを蔑ろにしたくないからだろう。もちろん仕事をしながら上手に時間を作って創作活動をしている人もいるけれど私はそこまで器用じゃない。ことあるごとに読み返している「余談 スチャダラパーシングス」に掲載されていたテレビマン・岡宗秀吾さんの寄稿文「ヒマが大事だと先輩は言った」を引用して終わります。

 

「テレビの世界も音楽の世界もビジネスなんだから最大の利益を求められるよね。そんなゲームに参加したら大変だよ。注目されすぎると窮屈だし、関係する大人が多すぎて過剰な期待もされる。でもビジネスになってないとこっちも生活していけない。そのバランスの取り方なんだよね。でも僕らが選んだのはヒマだよ。時間があるってこと。友達とダベったり、昼寝したり、何度も観た映画をまた観たりする時間が欲しいのよ。ムダのようでそれが一番贅沢だと思ってるんだよ」そうだった。忘れがちになるが、そうだった。「フリーランス」でいる理由はサボりたいからだった。誰にも叱られない自分だけの自由な時間をキープしたかった。そのダラダラした時間に湧いてきたアイデアを形にするときだけ思いっきり仕事がしたいというわがままを何とか叶えようとあがいている途中だったことに、はたと気づかされました。

日記

私は部族のエルダーたちが「スタンディング・ピープル[訳註:木のこと]のところに行きなさい」とか「ビーバー・ピープルとしばらく一緒に過ごすといい」というアドバイスをするのを聞いたことがある。人間以外の生き物が、私たちにとっての教師となり、知識の担い手となり、導き手となり得るということを彼らは言っているのだ。「バーチ・ピープル(樺の木の人々)」「ベアー・ピープル(熊の人々)」「ロック・ピープル(岩の人々)」がたくさん住んでいる世界を歩いているところを想像してほしい。尊敬し、人間が暮らす世界に含まれる価値がある「人」であると私たちがみなし、「人」と呼ぶ存在。

 

知人から「ふだんどんな本を読むの?」と聞かれても自分はこういう本を読むのだとはっきり答えることができない。特に好きな作家がいるわけでもないし推理小説や恋愛系など決まったジャンルを好んでいるわけでもない。いつかそんな話を夫にしたときに「あなたが読んでいるのはネイチャー系だよ」と言われて、そうかネイチャー系なのかと妙に納得したことがある。私の乱雑に本が積み重ねられただけの本棚には、森や動物、自然、先住民族などに関する本や雑誌、写真集が多く並んでいる。先月から、二、三年前に買った「植物と叡智の守り人」を毎日少しずつ読んでいる。手に入れた当初に気になる章をつまみ読みして以来ずっと積読していたのだが、(最近は新しく興味を持った本を買うだけのお小遣いもないということもあるけれど)この本は全部読みたいと思ったのだ。庭にあるカエデの木から樹液を集め、夜通し煮詰めてメープルシロップを手作りしたエピソードやネイティブアメリカンの思想と密接に関係する固有の言語のことなど、どのストーリーを読んでいても感動して涙が出てくる。冒頭に引用した文章は「植物と叡智の守り人」の一節だ。娘は最近、ベビーカーで保育園に行きたがる。車だとつまらないのだと言う。10分ちょっとの距離を歩いて送り届け、軽くなったベビーカーを押して同じ道を戻ってくる。登園時間を気にして小走りしている行きよりも景色が鮮明に見える。用水路を流れる水の音。椿にサザンカ。川の流れに身を任せてぼーっとしている鴨。たまにサギもいる。冬が長かったので日光が気持ち良く、川岸にはいつも何かが咲いている。そのまま公園に寄り道することもある。いろんな緑、それから茶色、黄色。家のすぐそばに川があって公園があってよかったと実感すると同時に、人間には誰にもこういう時間が必要だと思う。一昨日は犬といつもの山へ散歩に出かけた。遠くから見ると、うっすらとピンクに色づき始めた山。散歩コースにある桜や桃の木に近づいて一つひとつをじっくり見ると、ピンクとも茶色とも言えるような小さなつぼみがそれぞれの枝の先端についている。小指の爪の半分もない大きさのつぼみが集まって山の色を変化させる。春はもうすぐ。

 

 

 

※いつもブログを読んだりスターをつけてくれる方、本当にありがとうございます。反応が気になってしまう性格なので、ブログ公開後はいつもアクセス数を気にしたりしているのですが、一つひとつのアクセスが本当に励みになっています。本当です。ブログはあくまでもブログで有料化などは考えていないのですが、ためしに投げ銭機能としてcodoc連携というのを使ってみますので、もし気が向いたらお願いします。じぶんのドーナツ代やいつか作る自主制作本代に充てたいと思います。ちなみに「続きを読む」を押しても続きはありません(上述のもので全文)。

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日記

見たもの聞いたもの感じたこと思ったこと全部言葉にしたくなる最近はたぶん何かを書きたい強い衝動性(ADHD)に脳を支配されている。朝、窓越しに外を眺めていたらランドセルを担ぎ黄色い帽子を被った女の子が小学校とは反対の方向に向かって走っていた。夫は日も昇る前から県外スキーに出掛けており、そのため今日の保育園送り係は私。娘は普段よりも寝起きが良く、朝ごはんもしっかり食べてさあ出発というタイミングでなにやらお気に入りのくまのぬいぐるみをベビーカーに乗せている。「くまちゃんを連れていってあげよう」。そういうと娘は私の横にくっついて並んでベビーカーを押し始めた。結局、今日も遅刻だった。保育園に向かう途中、歩道にいくつか水たまりができていた。好奇心いっぱいの目で見つめる娘。「入ったら足、濡れちゃうよ」と伝えたものの、一つ目の水たまりに堂々と足を踏み入れる。水たまりはそこまで深くなかったようで靴の中まで濡れることはなかった。続いて二つ目の水たまり。これはちょっと深そう。「ここはやめておいたら?」という私の忠告を無視して水たまりのなかを歩くと、直後に顔をしかめて「なんかつめたい」と不快感をあらわにする。「そうだね、お靴のなかに水が入ったんだね」と言うと「ぬぎたい」と靴を脱ぎ、その後はベビーカーに乗って保育園まで送り届けた。「子どもは晴れた日も雨の日も、昼でも夜でも外に出て遊びたがる。雨が降っているときにベランダに出たがる子を「雨だからやめておこうよ」と止めたとき、「雨だからやめておこう」なんてなんの説得力もない言葉だと我ながら思った。雨に濡れて体を冷やして風邪をひいてほしくないとか、そもそも濡れたあとの着替えが面倒だとか、大人の都合でそれなりの理由はもちろんあるのだけど、それが子どもの遊びたい気持ちを止められる十分な理由にはならない」。以前、こんなことをブログに書いた(ジャンプの練習 - nov14b’s blog)。大きくなるに伴い学習したこと、避けるようになったこと。たとえばスニーカーでは水たまりに入らないとか、雨が降りそうだったら外で遊ばないとか。そういう自分の意識に刷り込まれていることを改めて見直す機会が子どもとの生活のなかで時折あって、私はその度にハッとさせられる。私は人生で一度も家賃を払ったことがない。一人暮らしをしていた大学生の頃は父親がお金を出してくれていたし、新卒で入社した会社は全国転勤のため社宅があり(一応、月々6、7000円ほどは天引きされていたような気もする)、結婚してからは夫のお父さんが買ってくれたマンションに暮らしている。昨年末、ツイッター(X)で芸術家の奈良美智が、自分は田舎の学歴のない両親のもとに生まれ、そこから芸大を目指し、大学在学中に仕送りを断ったというエピソードを投稿し「どんな地方からでも世界に出れる可能性はある、その可能性を自分は示したと思っている」と結んだことについて賛否両論があった。というか、炎上していた。多かったのは「苦労したようなことを書いているが十分恵まれている」とか「時代背景が違うので今の若者には当てはまらない」といった意見だった。一般的に見てじゅうぶん恵まれている人が苦労を語ったり田舎の貧乏を代表したりするものの言い方に違和感を覚える一方で(念のため書いておくと私は20代半ばまで奈良美智のけっこうなファンで個展を観に名古屋まで足を運んだこともあったし作品集やグッズもそれなりの数持っているが今回の一連のツイートには正直がっかりした)、そもそも、その人の苦労を誰かの苦労と比較する必要があるだろうか(余談だが経済的に「恵まれている」アーティストといえば、Chim↑Pom from Smappa!Groupのエリイちゃんこそそうだと思っていて、エリイちゃんの著書から滲み出るセレブならではの浮世離れした感じは逆に清々しいものを感じる)。私は自分は客観的に見たらお金に苦労したことがない人なのかもしれない。だけど、当時勉強に励んでいた英検の受験費用やそのためのテキスト、大学受験のための参考資料などを自分で稼いだアルバイト代で買ったり、そもそも受験するための費用がないので一校しか受験できなかったりしたことが当時の自分にとってはしんどかったし大変だったというのもなかったことにしたくないような気がする。似たような話で、例えば私が自分の発達障害について書けば「そんな私にも理解のある彼くん」と批判(?)されたり、このあいだ話題になっていた無職の人(説明が雑)が生きづらさについて書いたnoteを読んだのだが、「とはいえ慶應卒で彼女アリ」みたいなコメントにいいねがたくさんついていたりして、みんながみんな、お前の方が恵まれている、自分の方がもっとつらいということばかり言っているように感じた。世知辛い。苦労を比べあってこっちの方がもっと苦しいもっと大変だとか言わなくても済む社会にしていきたい。BOOKDAYとやまに出たい!

日記

言葉数が多くなっているときはたいてい心の調子が悪いときで、ここ最近のブログの更新頻度がそれを物語っている。昨日、夕方保育園から送られてきた連絡帳(電子)に「今日の娘ちゃんは甘えん坊さんでした」といった内容が書かれていて、しまったと思い、いつもよりも早めにお迎えにいった。というのも週末に娘の前でひどい夫婦喧嘩をしたばかりであり、私がほとんど発作のように怒鳴り大泣きしているあいだ、娘は私に抱きつき様子を伺うように上目遣いでにこにこしながら私の顔を覗き込んでいて、悪いことをしたものだと気になっていたのだ。普段よりずいぶんと早いお迎えに担任の先生が目を丸くしていたので「連絡帳を読んだんですけど…実は先日、夫婦喧嘩をして…」と打ち明けたら「娘ちゃん、最近はずっと甘えん坊ですよ」と笑って教えてくれた。当の娘はというと「ママ、むすめちゃんもうちょっとあそんでたかったー」と言う始末。私が想像しているよりもずっと娘はたくましく、自分の人生を歩んでいる。同じく昨日は心療内科の通院日で、忘れないようにとメモしていた悩みを先生にぶつけた。つい最近読んだ発達障害についての漫画で「認知の歪み」という言葉を知り、私のストレスや不安の原因のもとになっているあれやこれやは認知の歪みに由来するものではないかと思ったのだ。私からの相談をひとしきり聞いたあと、先生は一番に「それは認知の歪みではありません」と私の目をまっすぐ見つめて言った。「そういった出来事があって、人を信じられなくなったり、言葉をそのまま受け止められなくなったりするのはとても当たり前のことのように感じます。そんなに自分のことばかり責めなくてもいいんじゃないのでしょうか」。人の反応がこわい。人がこわい。人とのコミュニケーションで失敗したり間違ったりするのがこわい。たぶんそれは生育環境も関係していて、ここでそのことについて詳しく書くことはしないが、誰かに怒られたり悲しまれたりするのを極端に恐れて、なにかが起きるその前に先回りして怒られることを防いだり思いもしないことを言ったり話題を避けたりしてきたような気がする。そして人を恐れる自分、傷つく自分、人を信じられない自分が変わっているのだ、おかしいのだと思って生きてきた節がある。でも、人は傷つくことがある(もちろん傷つけることもある)。人を信じられなくなることもある。それ自体は自然なことで、傷つくこと、落ち込むこと、恐れること、それらを避けて通ることはできないし、もし傷ついたとしてもそのことで自分を責める必要はどこにもないのだ。(ここまで書いてきて、私が「心の調子が悪い」と自覚するとき、その背後には悲しさや悔しさや怒りみたいなものが本当はあるのだけど、ASDによくあることで、自分の感情に疎い・自分の感情がわからないというのもあるような気がした。)私はもっと自分の感情ときちんと向き合い、それを否定せず受け入れたほうがいいのだと思う。もちろんそうしようと思って簡単にできるようになることではないけれど、これまであまりにも自分の感情を蔑ろにしてきたと振り返って思う。そんなことに気づいた3月4日。

日記

左手の中指と薬指を頭頂部よりも少し下の場所に持っていき、髪の毛が空白になっている部分に当てて優しく撫でる。髪がないため他の部分と比べてへこんだ感じになっていて、髪の毛が生えている部分が草原だとすると、ハゲの部分は生えたての芝生のような柔らかくて気持ち良い感じになっている。今週の始めに思い立った勢いで予約した美容室で見つかった円形脱毛症は自分が円形脱毛症と聞いて想像するよりも少し大きく、ハゲがあること自体は大した問題ではないのだが、ハゲができる何らかの理由があったということに軽くショックを受けた。円形脱毛症になったのは今回が初めてではなくて、把握している限りでは小学生だった時に一度経験したことがある。中学校へ上がる前まで私のトレードマークはツインテールで、それは母の趣味によるものだったのだが、小学生の頃は毎朝登校前に母から結んでもらっていた。ある日、いつものように髪を整えてもらっていると、母が「ハゲがある」と言った。当時の私にとってハゲと言われてもピンとこず、「一部分の髪の毛がたくさん抜けた」程度の認識で特に気にすることもなかったが、母は「小学生の娘がハゲるような何らかの理由があった」ことにショックを受けていたようだった。母に連れられて訪れた皮膚科(だったと思う)で育毛剤を処方されて毎日毛がなくなった部分に塗っていたのだが、その育毛剤の匂いがとても特徴的で、また塗った部分から液体がこめかみの方向にむかって垂れてくる不快感をいまでもよく覚えている。で、いまのハゲ。友人である美容師によると「だいたい四ヶ月前にできたハゲ」で、ということは昨年12月くらいにできたものだと思うのだけど、これといって思い当たるストレスもなければ仕事が忙しかったということもない。人は知らず知らずのうちにストレスを感じたり溜めたり、また自律神経やホルモンが乱れるのかもしれないなあというごく普通の感想を抱いた。私はハゲをからかったり、「ハゲ」という言葉を悪口や相手を傷つけるために使ったりすることに断固として反対している。以前、夏葉社の島田潤一郎さんが「パパをハゲといって笑う人がいたら、私はカンカンに怒ります」と娘が息子に話している。うれしいな。」とポストしていたが(https://x.com/natsuhasha/status/1732674532807479628?s=20)、娘さんの感覚に極めて近いと思う。それは私の夫がスキンヘッドということも関係している(ちなみに島田さんと夫のヘアスタイルはよく似ている)。スキンヘッドはハゲではない。夫が30代の頃から一貫してスキンヘッドにしているのは若い頃からだんだんと進行したハゲが理由だったと聞いたことがあるが、ハゲだからスキンヘッドなのではなく、スキンヘッドを選んでスキンヘッドにしている。というか、別に全ての毛髪がハゲたからスキンヘッドであろうとスキンヘッドを選んでスキンヘッドにしていようと大した差はないと思う。ハゲは別に面白くないし笑いの対象でも馬鹿にしていいものでもない。一方でというのか、私は自分にハゲが見つかってショックを受けた。それはハゲ自体が悪いのでは決してなく、どちらかというと自分が不妊症だと告げられたときのショックに似ているような気がした。かつて私は産婦人科医から不妊症と診断され「子どもが欲しくなったら治療をしましょう」と言われたことがあるのだが、その頃、子どもを持つ希望は一切なかった。なかったけれど、当然あるべき機能が失われている状態、子どもを持つという選択肢を持っていないという現実は少なからず私に衝撃を与えたのだ。私の円形脱毛症は現在回復中で「ハゲたところから少しずつ髪が生えてきているから大丈夫」と言われた。だけどもしこれ以上髪の毛が生えてこないとしたら。髪の毛を伸ばすという選択肢がなくなったとしたら。仕事で付き合いがあるバリアフリーに知見が深い人が話していた言葉を思い出した。「他に選択肢がない人が優先されるべきである」。それほど選択肢がなかったり他の人に比べて少なかったりするというのはハンデキャップだったり精神的に負担を与えるものだったりするのだ。私は自分に見つかったハゲにショックを受けたけれど、そこに生えたばかりの髪の毛はそのうち伸びてくるだろう。