日記

今日の蕎麦屋バイトは「キャバクラで14万使ったのにこれしかもらえねかったよ、おねえちゃんあげるわ」と言ってキャバクラ嬢の顔写真がプリントされたチロルチョコ(3個入り)をくれる人にはじまり、トイレを詰まらせる人、ミリタリージャケットの胸ポケットに歯ブラシを直で入れている人などなかなかユニークなお客さんが訪れたものの総じて平和だった。キャバクラの相場がわからずツケ払いのニュースを観て無駄に知識をつけた私は「14万」と聞いて思わず「それしか使わなかったんですか」と突っ込みそうになったけど、一緒に出勤していたベテランさんに「14万使ってもらったのがこれだったとか…」と伝えると「一人でそんなに使ったんや」とリアクションしていたので高額ということがわかった。昨日ツイッターでやりとり(といっても一往復だけど)した同業者の方が「人によろこばれる仕事」と言っていて、その言葉が胸に引っかかった。お互い何も言わなかったけど考えていることは同じだったように感じる。飲食業をしている人に話を聞くと、多くの人が「お客さんの反応がすぐ見られるのがうれしい」と言う。「お客さんの喜ぶ顔が見られるのがやりがい」なのだと。ひるがえって自分の仕事はというと、なかなか「受け手」の反応がわかりづらい仕事だと思う。これは新聞のときにも雑誌のときにも感じていたことで、フリーになってからも変わらない。私はスターを目指していない。ライターであっても編集者であっても徹底して裏方であるべし、というのが自分の美学である。一方で人に褒められたい、喜ばれたいという思いがないわけではない。それでたまに鬱々とした気持ちになる。一緒にするのは申し訳ないような気もするけれど、わたしはこれを校正者の大西寿男さんシンドロームと勝手に呼んでいる(「プロフェッショナル仕事の流儀」を見たときにいろいろと察するものがあった)。形にしたいものがある。なんでそんなに執着しているのだろうとも思う。喜ばれたいでも褒められたいでもなくて、私がこれを書かなきゃいけないのだ、世に出さなくてはいけないのだという思い。振り返れば私は10代の頃からずっと「書きたい」気持ちだけを原動力に生きてきた。そして今、なぜフリーランスにこだわって仕事をしているかといえば、やっぱり、こうやって仕事以外の自分のやりたい気持ちを蔑ろにしたくないからだろう。もちろん仕事をしながら上手に時間を作って創作活動をしている人もいるけれど私はそこまで器用じゃない。ことあるごとに読み返している「余談 スチャダラパーシングス」に掲載されていたテレビマン・岡宗秀吾さんの寄稿文「ヒマが大事だと先輩は言った」を引用して終わります。

 

「テレビの世界も音楽の世界もビジネスなんだから最大の利益を求められるよね。そんなゲームに参加したら大変だよ。注目されすぎると窮屈だし、関係する大人が多すぎて過剰な期待もされる。でもビジネスになってないとこっちも生活していけない。そのバランスの取り方なんだよね。でも僕らが選んだのはヒマだよ。時間があるってこと。友達とダベったり、昼寝したり、何度も観た映画をまた観たりする時間が欲しいのよ。ムダのようでそれが一番贅沢だと思ってるんだよ」そうだった。忘れがちになるが、そうだった。「フリーランス」でいる理由はサボりたいからだった。誰にも叱られない自分だけの自由な時間をキープしたかった。そのダラダラした時間に湧いてきたアイデアを形にするときだけ思いっきり仕事がしたいというわがままを何とか叶えようとあがいている途中だったことに、はたと気づかされました。