日記

言葉数が多くなっているときはたいてい心の調子が悪いときで、ここ最近のブログの更新頻度がそれを物語っている。昨日、夕方保育園から送られてきた連絡帳(電子)に「今日の娘ちゃんは甘えん坊さんでした」といった内容が書かれていて、しまったと思い、いつもよりも早めにお迎えにいった。というのも週末に娘の前でひどい夫婦喧嘩をしたばかりであり、私がほとんど発作のように怒鳴り大泣きしているあいだ、娘は私に抱きつき様子を伺うように上目遣いでにこにこしながら私の顔を覗き込んでいて、悪いことをしたものだと気になっていたのだ。普段よりずいぶんと早いお迎えに担任の先生が目を丸くしていたので「連絡帳を読んだんですけど…実は先日、夫婦喧嘩をして…」と打ち明けたら「娘ちゃん、最近はずっと甘えん坊ですよ」と笑って教えてくれた。当の娘はというと「ママ、むすめちゃんもうちょっとあそんでたかったー」と言う始末。私が想像しているよりもずっと娘はたくましく、自分の人生を歩んでいる。同じく昨日は心療内科の通院日で、忘れないようにとメモしていた悩みを先生にぶつけた。つい最近読んだ発達障害についての漫画で「認知の歪み」という言葉を知り、私のストレスや不安の原因のもとになっているあれやこれやは認知の歪みに由来するものではないかと思ったのだ。私からの相談をひとしきり聞いたあと、先生は一番に「それは認知の歪みではありません」と私の目をまっすぐ見つめて言った。「そういった出来事があって、人を信じられなくなったり、言葉をそのまま受け止められなくなったりするのはとても当たり前のことのように感じます。そんなに自分のことばかり責めなくてもいいんじゃないのでしょうか」。人の反応がこわい。人がこわい。人とのコミュニケーションで失敗したり間違ったりするのがこわい。たぶんそれは生育環境も関係していて、ここでそのことについて詳しく書くことはしないが、誰かに怒られたり悲しまれたりするのを極端に恐れて、なにかが起きるその前に先回りして怒られることを防いだり思いもしないことを言ったり話題を避けたりしてきたような気がする。そして人を恐れる自分、傷つく自分、人を信じられない自分が変わっているのだ、おかしいのだと思って生きてきた節がある。でも、人は傷つくことがある(もちろん傷つけることもある)。人を信じられなくなることもある。それ自体は自然なことで、傷つくこと、落ち込むこと、恐れること、それらを避けて通ることはできないし、もし傷ついたとしてもそのことで自分を責める必要はどこにもないのだ。(ここまで書いてきて、私が「心の調子が悪い」と自覚するとき、その背後には悲しさや悔しさや怒りみたいなものが本当はあるのだけど、ASDによくあることで、自分の感情に疎い・自分の感情がわからないというのもあるような気がした。)私はもっと自分の感情ときちんと向き合い、それを否定せず受け入れたほうがいいのだと思う。もちろんそうしようと思って簡単にできるようになることではないけれど、これまであまりにも自分の感情を蔑ろにしてきたと振り返って思う。そんなことに気づいた3月4日。