日記

朝起きたら雪が積もっていた。北陸特有の鰤起こしも激しく轟いている。あまりにも音が大きく、近所に落雷しているのか地鳴りもするので、いまどこかからミサイルが飛んできても雷と見分けがつかなさそうだなあなどと不謹慎なことを思う。長靴を履いて駐車場まで歩いていき、車に積もった雪をスノーブラシで丁寧に落としてエンジンをかけた。私は四輪駆動を絶対的に信頼しすぎているような気もするが、たったいま車の屋根から落として作った雪の山をめがけて突進する。車は今年初の積雪も物ともせずにちゃんと前に進んでくれた。ちょうど2年前、娘と共に産院を退院した日の翌日はひどい雪だった。行政から「不要不急の外出は控えるように」と警告が出ていたのだが、娘の黄疸が治らなかったため、院長先生から「念のため」と言われて再度受診することになった。必要だし急いでいる用事。道路は真っ白、完全に凍っていて、地吹雪でときどきホワイトアウトが起こる。平時で家から片道1時間かかる産院だった。生後6日目の娘を車に乗せて一メートル先も見えないなかハンドルを握る夫はものすごいプレッシャーだっただろう。表情を変えずに運転する夫は、これまでで一番頼もしく見えた。娘が生まれる3年前、アイスランドを一周したときにも同じようなホワイトアウトを体験した。Höfn(ホプン)からEgilsstaðir(エイイルスタジール)に向かう途中、車道とそれ以外の見分けも付かない、ここが地球の最北端だと言っても誰も疑わないような場所を車で走っていたときに、ホワイトアウトが頻繁に起こった。恐怖と興奮でおかしなテンションになる夫。私たちが好きな映画「The Secret Life of Walter Mitty」のロケ地がこの峠を超えた先にある、というところでこれ以上先に進むのは危険と判断し、Uターンして、予約していた宿に向かうことになった。私が「どうにか頑張れば到達できたのではないか」と運転する責任も負わずにしつこく文句を言っていたら、疲労と緊張がピークに達していた夫と大喧嘩になり、その日の晩は(オーロラを眺める素敵な屋外ジャグジー付きの宿だったのに)一言も喋らなかった。アイスランド一周の旅は自分にとって特別すぎて、今も文章としてまとめることができない。このまま写真も記憶も自然に消えていって、思い出だけが残るのもいいと思う。

 

高校生の頃、自分は鬱病だと思っていた。両親がひどい理由で離婚してから、基本的に人を信用できなくなった。当時一番仲が良かった友達のお母さんに「顔つきが変わった」と言われて、他者から見ても自分の様子はおかしいのだと気づいた。顎関節症が酷くてかかりつけの大学病院を受診したら精神科的な診察をされた。長年習っていたピアノの先生に対して、今でも後悔するくらいひどい八つ当たりをした。別居して距離ができてからも父は過干渉だし、破天荒で、いつも私や母、妹の心を振り回し、破茶滅茶にした。リストカットの痕とたまたま母親に見られて「やだ、こわい!」と無邪気に言われたときには、失望を通り越して(本当は心配されたかったのだろう)逆にしっかりしないととも思えたが、大学に進学してひとり暮らしを始めてからも死にたい気持ちがおさまることはなく、もう本当につらいと思って地下鉄に乗りながらメンタルヘルスクリニックを検索して電話をかけたこともある。大学内にあるカウンセリングにも通った。父親の酷い振る舞いがフラッシュバックして、とてつもなく死にたくなる。PTSD心的外傷後ストレス障害)だと思った。母や妹は自律神経失調症になった。当時、自律神経失調症について知識がなかった私は「心の問題でしょ、薬なんて必要あるの」と非常に無神経なことを言ってしまったのだが、心の問題で、だからこそ薬が必要だったのだと今となっては分かる。ちなみに父は私が中学生の頃、鬱病になった。そのことについて詳しく聞いたことはないが、私が小学生の頃に独立して起業し、景気の波に翻弄されながら山あり谷あり、「男(父親)として、一家の大黒柱として、家計を支えなくてはならない」「社長として事業を潰すわけにはいかない」等々、私には計り知れないプレッシャーがあったのだろう。どうやって克服したのか私は知らないし、もしかしたら今も薬を飲み続けているのかも知れない。結局、家族のことでさえ、本当のことは何も分からない。今思うと私は鬱病ではなかったし、PTSDでもなかった。然るべき相談機関につながり支援を受ければ、もしかしたら何らかの心的トラブルを抱えていると診断されたかも知れないけれど、私には診断は必要なかったし、支援を受けなくとも自分の日常を取り戻せた。最近、夫が精神科で「鬱傾向」と診断されて気づいたことがある。私は鬱病のことを何も知らなかったし、夫のこともまだまだ知らなかったということだ。何で私が鬱にならなくて夫が鬱になるんだろうと思ったこともある。原因は何なのだろうと思う。だけど人はそれぞれストレスの感じ方も違うし置かれている環境も違うし考え方も違う。原因を探ることに意味はなく、「鬱病の人との接し方」というものがあるわけでもない。何を書きたいのか分からなくなってきた。鬱は分からない。