日記

去年の暮れ、暮れっていうかクリスマス当日だ。義理のお母さんから「孫ちゃんにプレゼントを買ってあげたいから書店へ行くのに付き合ってほしい」と誘われて一緒に大きな本屋さんへ行った。娘へ贈る絵本を選んだあと、お母さんに「今年はななさんも色々大変だったでしょう。好きな本を選んでいいから」と言ってもらい、本を数冊買ってもらったうちの一冊が牟田都子さんの「文にあたる」。私は牟田さんのことを全く存じ上げていなかったのだけど、発売されるやいなや文学界隈?で話題となっている様子を(ネットで)(というかツイッターで)見て気になっていた。最近この本を少しずつ読み進めているのだけど、私は何を読まされているんだろうという気持ちになることが多い。例えば本書のなかでは繰り返し校正の大変さ(やりがいも含め)や、「誤りがないことなど無理」ということが語られているのだが、いち読者としてはやっぱり本に誤植があるとがっかりする。雑誌社に勤めはじめておのずと雑誌をよく読むようになり驚いたのは他社の「お詫びと訂正」の多さで、毎月、毎週のように誤りが見つかり公式HPで謝罪していることにびっくりしたし少し落胆した。もちろん本のなかで引用している箇所にもあった「間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうしてただ間違っていないというだけの事以外に何の取柄もないと思われる本もある」のだろうけど、著者の言い訳のようにも思えて、やっぱり何を読まされているのか分からなくなる。もちろん完全に間違いをなくすことの難しさもわかるし、私も刷り上がった新聞や雑誌で自分が書いた記事を見るのは怖かった。だけど初めから間違いをしない(見落とさない)ことなど無理とは言いたくない....気がする。そんなことをブログに書きながら思い出したのだけどたぶん私は世の中に委ねた作品、完成したものとして世の中にリリースした(手放した)作品についてあとからあれこれ言うのが(言っているのが)好きじゃないのだ。例えばライターが何かの記事について「この取材にはこんなエピソードがあって、いろんな話を盛り込みたかったけど字数の都合で省きました。でも思い入れは超あります!」みたいなことをどこかの場で書くようなことがイヤ。盛り込みたいけど字数の都合で省いたことは黙っていてほしい。なんか後出しジャンケンっぽくてずるくも感じるし、その記事(作品)一つで表現してみたらいいのにというかそれが全てだろとも思う。なんか気づいたら話外れてる?牟田さんが人気の校正者である理由はもしかすると自信のなさなのかもと思う。上から目線で著者の誤りを指摘して修正させることを仕事としているのではなく、著者があっての自分の仕事という姿勢。著者の意図をくみとり、表現を最大限尊重しようとする姿勢。そのこと自体、私は素晴らしいと思う。本も面白かった。