日記

ドライブスルーで朝マック買って食べながら図書館へ向かおうと思っていたんだけど窓越しに見えた男性が店内で朝マックを楽しむ姿が素敵に見えて、ドライブスルーで注文したものの「やっぱりお店で食べていってもいいですか」とお願いしてソーセージエッグマフィンとハッシュポテトを食べる今。仕事とは関係のない好き勝手な文章を書かないと私は調子が悪くなることに気づき、ひとまずいろんな作業をストップしてブログを書くことにした。大学生の頃、私に「アウトプットする場所が必要なんじゃない?ブログでも書いたら?」と言ってくれた友達にはその一言だけでいまも感謝している。先週末の東京行きの目的は、母に誘われた劇団四季の観賞だった。お母さんと話しながら思わず本音が出た。最近仕事がつまらないんだよね。私は自分がこれまでしてきた仕事に誇りを持っていて、新聞時代も雑誌時代も、インタビューのスキルや文章を書く技術、企画を考えたり編集をしたりすることをそれなりに学んで習得してきたと思っているのだけど、いま人から受けてする仕事は、もちろんやりがいはあるし一つも手を抜かないで本気で取り組んでいるけれど、成長している実感がないし、スケジュール的にキツいと思うことはあるけれど、精神的にヒリヒリする感覚がない。例えば雑誌編集の求人を探せば、東京都内では出版社の求人が正社員も含め余るほどあるのに、石川県でそういった人材を求めている会社はない。新聞もそう。じゃあ今雑誌編集者をふたたびしたいかといえば、そうとは言い切れないけれど、だけど、このまま地方の仕事、誰かから引き受けて簡単に(もちろんチョロい仕事だなんて思っていないよ)できちゃう仕事ばかりしていると、私ができることは、どんどんその仕事のサイズに合わせるように小さくなっていってしまうんじゃないかという漠然とした不安がある。フリーランスになった頃にしばらく悩んでいたことが誰でも「ライター」を名乗れることで、わたしはプライドが高かったというか言葉に関わる仕事をすることに誇りを持っていたので、例えばマスコミ業界で働いた経験がないけれど文章が好きで得意だからライターもしています、みたいな人と同じ「ライター」を名乗るのが死ぬほど嫌だった。というか、正直いまでも嫌だ。資格は要らないけれど、というか資格が要らないからこそ私は職業倫理観とでも言うのだろうか、そういう誇り高さとそれに伴う技術が欠かせないと思うのだけど、ライターを名乗っている人全員にそれがあるかといえば、そうではないだろう。正直、テキトーな仕事をしている人がライター名乗ってるのが死ぬほどムカつく。そんな話を以前夫にしたら、「メジャーで活躍しているサッカー選手が高校で一所懸命サッカーしているサッカー部員たちのことを“俺たちと同じサッカー選手を名乗らないでほしい”なんて思わないんじゃない?あなたはあなたの仕事を大切にしたらいいよ。プロは他の人が何を名乗ろうと気にしないと思うよ」と言われて自分の小物感が恥ずかしくなったけどでもライターっていう肩書きが今でもしっくりきていない。私は何になりたいのか?ということで劇団四季という一流の仕事を観ながら、私はなんで結婚したのか、出産して何を失ってたのか、現状に満足していていいのか、もっと知らない世界が観たい、ヒリヒリするような経験がしたい、とかプロの仕事に触れていろいろ刺激を受けすぎて色んな意味で泣いていたのだけどっていうか「美女と野獣」観ながらこんなこと考えていたのウケるけど、当たり前だけど毎日劇団四季を観ることはできないし、死ぬまで世界旅行を続けることもできない。なにかにつけて私は日常を破壊しようとするというかたぶん潜在的に日常破壊欲みたいなのがあるのだが、非日常とは日常があってこそ成り立つもので、日常を放り出せばそれで自分の欲求が満たされるわけでは決してなく、いかに日常を守りながら非日常の機会を作っていくかが大切なんじゃないかと思った。いま一緒に仕事をしている人が、その人は海外に携わる仕事をしていて定期的に海外を訪れているのだけど、「そんなに海外が好きで、そのまま海外に住みたいって思ったことはないんですか?」「日本の生活だって肌に合わないと思っているんですよね」と思い切って聞いてみたら、「軸があるから、自由にできるんです。帰ってくる場所があるから旅に出られるし、旅を終えることができる。あなたも軸をどこに置くか決めたらどうですか。それは住む場所でもいいし家族でもいい。軸があると楽になりますよ」と言われたのだった。そんなことを思い出しながら、私の軸はどこにあるんだろう、どこに置くべきなのか、とか何度も書くけど劇団四季を観ながら考えていた。で、東京はめちゃくちゃ刺激的だったし色んな仕事があるのも羨ましいし多様な在り方が認められているというか認めなくともそこにある、それだけでいいなあと思うのだけど、地方で、少なくとも当面はここ石川で暮らしていく私は、自分で自分に何かを課しながら、ちょっと踏ん張りながらモチベーションを保っていないといつか本当に後悔するときが来そうと思った。すごい漠然としてるけど、何かを成し遂げたいし頑張りたいんだよ。なんか面白い仕事、別に仕事じゃなくてもいいんだけど声かけてください(結局受け身)。美女と野獣のわりとはじめのほうでガストンの求婚を断ったベルが「もっと素敵な世界がわたしを待ってる」とのびやかに歌うシーンが死ぬほど好きで、社会人になったばかりの頃から仕事とかプライベートでなにかいやなことがあるたびにこのシーンを思い出してなんとか生きてきた。地方住まいになってからディズニー自体への熱が冷めてサントラを聞くこともなくなっていたのだけど(ディズニー、多少日常でストレス感じたりひりついた思いをしないとこの魔法とか夢の「非日常感」にグッとこないというか、平凡に生きているとあまり必要がなかった)、劇団四季で久しぶりにこの曲と再会して心が震えて、それで「もっと素敵な世界がわたしを待ってる」はずなんじゃ....?と思いはじめて上に書いたようなことをぐるぐる考えることになったのだけど、物語のベルが終盤で「子どもの頃の夢はいいわ、いまの自分が好きだもの。わたしは変わったの」と宣言していて(こんなセリフ、アニメ(原作)バージョンにはなかったと思う)、びっくりした。「もっと素敵な世界」にたどりつくのに必ずしもいまいる場所を離れる必要もなくて、ここにいても私は変わることができる。何においてもそのときどきで優先順位をつけて何かを優先したり何かを後回しにしたりすることはあって、全てを追い求めることはできない。仮にいま育児優先で何かの優先順位を下げていたとして、私はなにも失っていないし何も諦めていない。どこかに軸足置いて日常をちゃんと送りながらなんかがんばりたい。