日記

妊娠が判ったのは3年前の6月だった。つわりは酷く、身体の成長が止まって以来ずっと50キロ台だった体重がある日、40キロ台へ突入したときにはいよいよやばいと思った。その年の夏、オンラインで開催されたフジロックフェスティバルを自宅で夫と観ながら、私は寿司を口にしては吐き、懲りずに宅配ピザを口に入れては吐きを繰り返し、とうとう目当てだったケミカルブラザーズを観ることなく意識を失った。つわりに加えて私を苦しませたのが妊娠性掻痒(そうよう)だった。毎晩、就寝するタイミングになると決まって手と足の先が痒くなる。その痒さは尋常でなく、言葉どおり気が狂いそうになるほど痒い。いつか誰かが言っていた。痛みは共感されやすいが痒みのつらさはなかなか他者に伝わらない。涙が出るほど痒いのに、担当医は「妊娠で太ったから(皮膚が伸びて)痒いんじゃない。より気を引き締めて体重コントロールをするように」と笑って言うだけ。妊婦でも塗布できる薬はあるのだが、私は神経質なためたとえ酷い頭痛に悩まされても薬を飲まなかった。よって塗り薬も我慢して、両手両足、厳密に言えば両手のひらと両足のうらにちょうど保冷剤が当たるように手拭いでくくりつけ、なんとか痒みを耐え忍ぶ日々を送っていた。つらさを共有する人が欲しい。そんな思いでツイート検索をしていたところ、私と似たような時期に妊娠し同じく妊娠性掻痒に悩まされる女性を見つけた。リプライやDMで直接やりとりすることはなかったけれど、彼女が痒みに怒り狂っていれば「いいね」を押し、私もまた「いいね」を返されるような関係が続いていた。その年の冬、彼女は第二子を無事出産し、ほどなくして私も子どもを産んだ。子どもが生まれてからもそのゆるやかなつながりは続いた。一方で、彼女のツイートを見ているなかで、疑問に思う、率直に言えば共感できないことも増えていった。バカな男と結婚し、バカな男に悩まされ、金に悩み、育児に悩み、それなのにいつもセックスして仲直りしている。いつしか私は彼女のことを軽蔑するようになっていた。結局のところ私たちの共通点は、予定日が近かったことと妊娠性掻痒に悩まされていたこと、それだけしかなかったのだ。あるとき私は彼女のつぶやきをこれ以上見ていられないと思い、そっとフォローを外した。数日後、彼女からのフォローも外れていた。たかが同じ年に子どもを産んだ、たったそれだけの共通点で、全てにおいて共感できるはずなどない。同じ時代に生まれたもの同士、なんて言葉がいかに適当であるかが分かる。同じ時代に生きたところで運命を共になんかしていないし生まれたときから境遇が異なっている。それぞれが歩む人生も、当然ながら違う。

巷には育児に関する情報が溢れている。夜通し寝てもらうコツ、離乳食完全マニュアル、トイレトレーニング成功術。インターネット上に溢れる育児情報は母親たちの叡智の結晶だ。そこには失敗しない方法があり、成功への道が共有されている。多くの母親たちが子どものためを思ってより良い選択をしようとし、工夫し、道を踏み外さないようにしている。だけど少し立ち止まって考えてみると、子どもは尊い。死なせてはならない。より良い人生を彼らに与えたい。そんな絶対的に正しい価値観のもと「育児とはこうあるべきだ」「失敗してはならない」というものが溢れすぎているようにも感じる。知識の飽和状態でまるで正解が元々決まっているよう、トライアンドエラーの仕様もない。育てているその相手は生身の人間だというのに。成功する方法は世の中に溢れているが、当たり前だけどその方法はすべての人間に当てはまるわけではないし、同じようにやってみても上手くいかない人はごまんといる。そもそも私たちの共通点は同じ時代に似たような年代の子どもがいるというただそれだけで、似た特性を持つ子どもがいるわけでもないし、だからこそ似た育児をする必要もない。私たちはもっと多様な親であっていいし、多様な育児をしてもいい、失敗だってして良いのだと思う。